二匹の子ヤギについて
幼い頃の記憶はあまり残っていない。気にかけてはいなかったが、成長するに従って、もしや僕はあれらの経験を忌避しているのだろうかと気がついた。無意識にででも。
「おやおや。それは困りましたね」
場を繋ぐための台詞に、彼はあからさまな怯えた目を返す。
下の名前を沢田綱吉が呼んでいた。エンマというらしい。
「へぇ……」
並中制服に身をつつみ、カバンを胸で抱きしめるその姿はいかにも弱者だ。
さぁ殴れ。虐げろ。僕を殺してくれ。
ゆううつに濁ったまなこが暗に発するメッセージが、心地よかった。
こういう、男が、端々にいるから学校という空間が好きだ。肉食のケモノも草食性のものも人間も小動物もぜんぶ『子ども』というカテゴリーでひっくるめて収監する。本当に学校という場所はすばらしい。
「……僕、それなりにお金は持ってるんですけど、お金ってどんだけ持っても足らないですよね? ねえ? 君もそう思いますよね。僕はいつもおこづかいが欲しいんですよね。ええ? 君、マフィアなら持ってるんじゃないですか? 今いくら持ってるんですか」
試しでテキトウな脅し文句を選んで告げる。エンマは戸惑って後退りをする。
上目遣いで困惑する仕草も、いちいち、嗜虐欲をそそる。
「……ボンゴレファミリーじゃ?」
「そんなこと関係ありますか。出せないのならばいけないのは君ですね」
さほど力はこめずに殴ったが、少年は塀に肩をぶつけて沈黙する。
ますます怯えた目で僕を睨んだ――いや、単に見つめた。
「クフッ。君は、トラウマに縋りつくタチですね? だから怖がるんでしょう? 教えてあげましょう、そういう生き方は僕を始めとした特定の人間には虫酸が走るものなのですよ」
例えばコチラは幼い頃の記憶が欠落しているも同然の人間だ。あの頃は、一年間が一週間のようだった。実験しか続かなかったから思い出に残るものなど一ヶ月先も半年先も変わらない。だから一週間だ。
五度も殴られると、エンマは足を崩してコンクリートにしゃがみ込むようになった。
「クハッ――。君のような輩が僕の視界に入ってくれて嬉しいですよ!!」
思いっきり、脇腹を蹴りつけようとしたところで、しかし僕は足を下げた。
あの家から少年が出てくる。元々は僕は彼の家庭教師に用事があってここにきたのだ。面白いものを見つけたから用事を後回しにしてしまったが。
彼は程なく姿を見せた。制服を着崩した姿で母親のモノらしきピンクのサイフを手にしている。買い出しでも頼まれたのだろう。
「あ、あれ?! エンマ君……に、六道骸?!」
「お久しぶりですね、綱吉くん」
沢田綱吉は、目を剥いて僕とエンマを見比べる。
肩を貸してやり、頬に鬱血を貼りつける少年を立たせる。何も言えないでいる沢田綱吉は口を開けたり閉じたりとする。
「よくない奴らに絡まれていたのを助けてあげたんですよ。ねぇ? エンマくん」
「…………うん」
頭から闇に突っこんでいくような、先細りした声で、エンマ。
肩を貸し、沢田綱吉には見えない位置で肉ごと彼の肌をつねりあげながら、僕は笑みを深めざるを得なかった。僕も並中に通ってみようかなと少しだけ思えてしまう。
「エ、エンマくん。大丈夫なの……?!」
傷を心配するフリはしているが、沢田綱吉は疑りぶかげに僕を見つめる。久々に心地良い眼差しだった。
「家はどちらですか? 僕が送り届けてあげましょう」
「――いや、だめだ」
少し意外だったが、拒否したのは沢田綱吉だった。表面上は平静を保つ。
「僕を信用できませんか? 綱吉くん。霧の守護者としてそれなりに働いてるでしょう」
「骸はリボーンに用事があったんじゃないのか?」
「酷いですね。何がいけないというのです?」
「エンマ君。ごめんね。はやく帰って手当てした方がいいよ! 骸はこっちだろ」
僕らに近寄ると、沢田綱吉はエンマと僕との胸に手をついて引き離しにかかった。
揺れている瞳に、僕の居場所があるように感じられた。
「綱吉くん。悲しいことですね。ただ僕は親切をしてあげようと思っただけなのに」
「…………」僕と沢田綱吉を見比べて、エンマは軽く頷いた。小声で言った。
「ありがとう」
「ううん。あの、……困ったことがあったらオレに言ってくれていいからな?」
「うん」
「僕にいってくれても構いませんよ? クフフフフフフフフフ」
すかさず、先制しておくとエンマは明らかに肩をビクリと動かした。青褪めて、沢田綱吉に会釈するだけで走って逃げていく。沢田綱吉は素直な解釈をした。
「む、骸! 怖がらせるなよ!」
「クフフフフフフフ」
まだまだ、今の子どもで遊べそうだ。期待が高鳴ったが、予想通りに沢田綱吉は僕を睨み挙げてくる。エンマが居なくなった途端にこれだから、この子も酷い。
「僕を疑うんですか。今の少年は、綱吉くんと仲がよかったから、助けてあげたのに。君とよく一緒にいるでしょう最近は」
「むしろお前とエンマ君が二人でいたら加害者と被害者だろーが」
半眼になっていつもの厳しい評価だ。だけれどこの子は本当に勘がいいなと感心する。
放っておくと、一人で勝手に真実に行き着く恐れがある。思考を阻むためにも、目を丸くして後退りするのには構わず彼から母親のサイフを奪った。
「な、なにするんだよ。返せよ!」
「嫌ですよ。綱吉くん。またこんなくだらない買物を引き受けてしまって。お人好しなんですね」
「あのなー、お前の尺度がおかしいっ……、て、だ、抱きつくなよこんなとこで!」
「僕ってそんなに信用ありませんかね?」
サイフを取り戻そうとして少年はこちらの胸に飛びかかってくる。だから、それを利用して胸にきたところで肩を抱いた。
沢田綱吉の体はあたたかい。出会った頃からこうだ。耳に息をささやけば可憐な肉体がふるりとした伝搬に揺すられてなまめかしい。
「僕は、こんなに君のことを愛してるのに!」
「だっ……だから、ここ、外だって」
「僕は君のおかげで救われた。君をいちばんの光に思っているのです。外でも人は他にはいませんよ? 僕は、きちんと君の意向に沿って君を愛してるでしょう。信じられないんですか?」
ぎゅううと抱きしめて、鼻先にある可愛らしいカタチの耳朶には吐息を吹きかけながら喋っていると沢田綱吉が大人しくなった。
胸中にある面を覗けば、頬を仄かに赤らめて僕を見つめ返した。
「お前、いつも、やたらに気にするなよな……。信じてるよ」
言いながら、沢田綱吉は目を反らす。口では信じているといいながら僕を疑いつづけているこの子の新たな一面を見ている気分だ。
「骸……。エンマ君が絡まれてたら助けてやってくれよ。ホント、オレが見てても可哀相になるんだ。でもオレのハイパー化みてからちょっとエンマくんよそよそしくなっちゃって」
「それは、君が、マフィアだからですよ」
「? でも、エンマくんだってマフィアだろ?」
そんなんだから、君はバカで愚かで僕にすら嫌われているんですよ。
喉まで出かかった言葉は、呑み込んだ。代わりにニッコリと微笑みを作り、口唇では真逆の愛を奏でる。
「わかりましたよ。虐められないように気をつけておいてあげます。愛する君の頼みですから。でも報酬はいただきますよ」
「舌入れたら怒るぞ?」
唇を近づける僕に、沢田綱吉は躊躇いがちな制止を試みる。
……そんな気分ではなかったが、頷いた。
触れあったところから蕩けるような甘味を覚える。キスからは背徳の味がした。久しぶりに下半身が反応してくる。さきほどからそんな気はしていた。僕は興奮してる。頭がそのことしか考えられなくなってきていたが、戯言を繰り出す余裕はまだあった。このまま抱けたら本当に気持ち悦くなれそうなものなのだが。
「愛してますよ。心から。綱吉くん。どうです、久しぶりに……ねぇ? 僕の部屋にきませんか。ホテルでもいいですよ」
「おれ、これから、買物。カレーのニンジン忘れちゃったんだってさ」
「一緒に行ってあげますから。ね、久しぶりに。いいでしょう?」
「うー……。いや。そんな気分じゃないよ。エンマ君、大丈夫だったかな」
「僕は今すぐ君を抱きたいんです」
「リボーンへの用事はどうしたんだっ?! 突拍子もないぞお前!」
見たところ、まんざらでもなさそうだから、粘って口説き落とすことを心に決める。
僕の玩具は本当にかわいらしい。キスは、舌をいれるならば、唇だけとはいわず、喉の奥まで、体の奥までぐちゃぐちゃにしてやりたい欲望が走る。
「――じゃあ荷物持ちしてくれたらいいよ。ご飯食べてから、行けばいいか?」
「外で待ってますよ。君が出てくるのを」
「え? 時間かかるぞ」
「平気ですよ、それくらい」
君に何をするかを考えているだけで充分に楽しめるひとときだ。
沢田綱吉は、僕の眼差しに何かを本能的に嗅ぎつけたらしかった。
しかしすぐに目を反らす。この子は優しい。僕に同情している。けれど、僕を通して、僕の幼き日々の話やマフィアの悪行を聞くのを怖れている。この子もまた忌避しているのだ。無意識にででも。だから僕が本当にはどんな人格であるのかもいまいち理解できない。
「綱吉くん。でも、最後にもう一回いいですか? そしたら僕はイイ子で待っていますから」
「んー。あ、ペットボトル買うからな。骸がいるなら三本買うぞ!」
「いいですよ。ですから――」
道すがら、小声でのやり取りの果てに、往来から人のいなくなった瞬間に僕らは唇を重ねた。
一つ、この頃の気がかりが胸を苛んだ。忌避しているというなら、どうして、僕はこの子の嫌がることがおおっぴらに出来なくなってしまったのだろう。
おわり
10.04.29
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