バレンタイン殺人事件(前)






「今日は、人類が絶滅する日かもしれません」
 真顔で言ってのける少年に、返す言葉を失った。
 遅い朝食ではあったがご飯は食べた。綱吉が部屋に戻れば彼は断りもなくベッドに座っていた。
「人類推定六十八億の墓穴が必要です。当然、君の助けはあるものとしても今からじゃ出来上がるのは夜でしょうか? 今日という日はお日柄もよく絶好の滅亡のチャンスです」
「……いや、バレンタインだよ」
 不安はあったがツッコミは入れておく。
 綱吉は、手にしていたポテトチップスの包み袋を開けた。
 簡素な長Tシャツにグレーのスウェットパンツ姿で格好悪くはないが格好良くもない。対しての六道骸は、紫を基調にして洒落た佇まいだった。手首にはメタルバンドまで巻いてある。
 足を組ませて突き出た右の膝頭に、組んだ両手を乗っけて、彼はフンッと鼻息を荒くする。
「わかんないですよ。今日はさまざまな思いが交錯すると指摘してるんです。恋する乙女、期待する男児、あぶれるブ男、五寸釘を片手に神社の階段を駆けあがる失恋男! まさに今日は平和主義者撲滅のバレンタインデー!!」
「……つまりさ」
 ぱりぽりとポテトチップスを摘みつつ、綱吉は一筋の汗を浮かべた。
 呆れた半眼を六道骸に向けて、逃げ道を確保するために扉を背にして立っている。
「チョコをくれと言いたいのか、お前は」
「端的に表現したらそうと言えなくもないかもしれません!」
 おおげさに前髪を掻き上げ、しかしもう一方の手は左右に揺らして否定してみせる。
「いえ、ひとっことも言ってませんけどね。僕は! 一言たりとも!! そんなムードを微塵もちょっぴりも出し惜しみもヘルシーランドになんで来てくれないんだろうとかそんなことは全然まったく無きにしも非らずで有り得ないんですが!!」
「…………」
 ぱりぽりぱりぽり。
 不意に、骸がハッとして綱吉をふり返った。ハムスターが……エサを貪るようにオヤツを食べるもんだと思ってしまうと一種のときめきが胸に生じるからだ。
 楕円のポテトチップスをかじって――、歯と唇で半分に折ってから、一枚を大事に食べていく。綱吉は眉を顰めていた。やや青褪めている。
 骸は身振りのために持ち上げていた両手をおろす。
 ハムスター萌えはひとまず後だ。重く……ため息を見せつけて、窓の方に黄昏れた眼差しを投げかける。
「……ただ、今日は絶好の人類絶滅日和かもしれないなぁとね……思うんですよね」
「ふ、ふうん……」
「…………」
「…………」
 ……ポり。
 静寂に、渇いた音が響く。
 綱吉の冷や汗はついには顎まで垂れた。
「……帰ります」出し抜けに呟き、骸は長い二本足をカーペットに叩きつけるようにして立った。
「あ。ああ、うん――」
「帰りますけど。べ、つ、に、これ以上は君が嫌がるとか怒るかもとかそんな理由ではありません」
「じゃあな。また明日な」
「――――……」
 オッドアイを見開かせ、ゆぅらりとして綱吉をふり返る骸の全身が『ふざけてるんですか?』と怒気を荒らげる。
 綱吉は、ポテトチップスの袋に手をまた突っこんだ。ぽり。かじる。
 気弱な眼差しと、脅迫すら滲む睥睨とが火花を散らした。
(な、なんでこんなことに……。でも挑発に乗ったらオレの負けだ。ここはあくまで落ち着いて骸のペースを乱すんだ)
 ぱりぱりぱりぱり。
 映画鑑賞者のノリで綱吉は勢いよくポテトチップスを食べ出した。
 骸が、さすがに嫌そうな顔になった。だが。右腕を掲げると窓めがけて振りかぶった。
「――笹川京子に本命ってデコレートした板チョコあげにいきますよ?! ヤケで!!」
「脅迫のベクトルをおかしな方向に向けるなぁああああ!! って、あーっ?!」
 我に返ったのは、ポテトチップス袋を投げつけた後だ。
 骸に命中する頃には、袋の中身がそこら中にぶちまけられていた。
 しかも骸の頬には軽くぶつかっただけだった。
 彼は、オッドアイを軽蔑させた。例え綱吉相手だろうと気分が害されれば平気で攻撃してくる。骸はそういう奴だった。
「何してんですか。グズですね」
「お、お前のせいだろぉっ?! う、うわああ、そ、掃除が……メンドウなことに!」
「あーあ。あーあ。グズ。ダメ男。ダメツナ!」
「だあああっ。オレの部屋が汚れたのがお前にどー関係あんだっ。あー。まだ半分も食べてなかった」
 袋を拾い上げ、ゴミと化したチップスを回収しようとして――。奇跡的に袋に残っていた一枚を摘んだ。
 ぱり。とりあえずは、袋をゴミ入れにするために食べておく。
「あ。結局、僕に一枚もくれてないですよ」
 骸が不服げに呻く。
 誰がおまえにやると言った。胸中でツッコミしたが、骸がポテトチップスの下半分を口でくわえてきたので綱吉は面を喰らう。
 ぱり……っ。
 さして音を立てず、至近距離からチップスを半分に割っていって、咥内に収めると軽く噛んで飲み下した。
 そうしながら骸は柳眉を跳ね上げた。腕組みして何でもないことをしたという態度だ。
「おや。沢田綱吉、顔が赤くなってますよ……?」
「……帰れ、お前!!」
 綱吉は、今度こそカラになったポテトチップス袋を大きく振りかぶって拳と一緒に骸の顔面に叩きつけるに至る。

 

「なんだ。用意してたのなら昨日の内からメールしてくれれば!」
「どこまで素でしゃべってるんだ?」
 相手が演技上手でブリッ子すらできると知っているので綱吉は疑り深かった。
「メールって……どこの日本のバレンタインに告知義務が……」
「酷いですね。本心ですよ」
「だったら余計に……」骸の頭の中がやばいんじゃないの?
 でも、と、骸が綱吉のセリフを遮った。
 骸の鼻の上には絆創膏がつけてある。顔面が痛いとしつこくするので、綱吉があげたやつだ。
「気に入りませんね。思いっきり未完成じゃありませんか」
「チョコを受け取りにわざわざウチまで来たんじゃないんだろ? 骸は。さっき自分で力説してただろ」
 言ってからイジワルだったかなと思い直した。オッドアイの半眼が冷たい。
「沢田綱吉……。恋の盛り上がりに水を差す輩は馬に蹴られて死んで塵になってしまえと言い伝えがあると聴いたのですが?」
「それでオレが蹴り出されたら骸はどうするんだよ」
「追いかけますよ、そりゃ」
 胸を張って、骸が腰に手首を宛てる。
「おかしいだろ!」
(もうイヤだなコイツは!)
 内心でヒィッとしている綱吉の葛藤は読めているのか気にしていないのか愉しんでいるのか、骸は矛盾点は無視しなさいとばかりにキッチンカウンターに手をだした。正確には、陳列されているものへと。
 慌てて、綱吉が溶かし用のチョコレートチップスを奪い返した。
「あ、あんま見るなよっ!」
「そのエプロン、かわいいですね。ホワイトが君にはよく似合いますよ」
「何の話をしてんだ?! これは母さんのだよって、だああっ。引っぱんな! 小学生かお前は!」
「だってチョコを見るなと言うからそれなら沢田綱吉を」
「黙っとれ!」
 エプロンの紐や裾を直し、綱吉は直径十センチの丸型を洗い始めた。
「骸がうるさいから出してやったんだぞ。これ買うの恥ずかしかったんだからな!」
「……僕がさりげなくお願いした通りに、手作りチョコなんですねー。そこにあるのは愛ですか?」
「同情!」
 赤面しながら言い返して、腕まくりをする。
 もう出て行け。そんな空気を作りだしているつもりの綱吉を無視して骸が背後に立っていた。
 キッチンカウンターに片手をついているので、綱吉にも骸にも二人の身長差のひらきがよく感じられた。見ようによっては綱吉は骸の胸に収まっているのだ。
「同情ですか? へえ? 君は、同情でオトコにチョコレートをあげるんですか? バレンタインデーに?」
「……人類のために! 骸がそー言ったんだろ。絶滅しちゃうんだろ?」
「そーですねぇー」
 嬉しそうに細められたオッドアイの表面に、綱吉は仄かな星屑を数えることができた。
(幸せそうに笑ってる場合かよ?)
 指先がちりちりしてくるのに耐えて、胸中では合いの手を入れていた。
(非人間。六道輪廻。ナルシスト。ワガママ。子どもっぽいヤツ……)
「思うに……」
 甘い声で呻きながら、骸は片手で自らの下顎を撫でて、後頭部のふわふわした髪に左頬を擦りつけた。
「なんとか購入はしたけれど家人の前でチョコを作れなかった。自分で作ることへの抵抗もありましたね? 月日は残酷に経過してしまう。当日の十四日――、転機がくる。君のおかあさんもリボーンも朝から出かけてしまう。仕方がないから一人で朝ご飯にトースト食べながら君は戸惑っていた。ポテトチップスでも食べながら、これからどうするか、考えよう……、そこで僕が来てしまった。そーなんでしょう?」
「…………っっっ?!」
 ばん!!
 ふり下ろされた綱吉の両手は、キッチンカウンターを強く叩いた。
「黙ってろお前。作って欲しいんなら! ってーか何でオレの朝ご飯まで知ってるんだ?!」
「かーわい。照れてる」
「何で知ってんだよォってだわぁあっ?!」
 骸が右耳の後ろをペロリとしていた。
 耳まで赤くなっていたのでその感覚は冷や水で背中を濡らされたのと等しい。藻掻く綱吉を抑えつけ、骸が続きのキスをしかけようとしたが。
 綱吉の秘策は、目論見通りに相手の動きを止めた。
「たんまっ! 変なことしてる時間はないんだぞ。リボーンか誰かに見つかったら皆の分も作るしかない。ほんっと恥ずかしいからそれだけはヤだったんだけど。骸はそれでいいのか?!」
 オッドアイが驚愕で丸まった。
 赤と蒼、お人形めいた両眼を仰ぎ見るだけで綱吉には心境の変化が感じ取れた。
 二人で過ごした時間はそれなりに長いのだ。
 なんだかんだとあって十年後から帰還したあと、過度にパワーアップしてしまったクローム髑髏が骸を水牢から助け出した。――それから一年で、今の関係になった。
 クロームが綱吉に助けを求めて、同情してしまった綱吉が逃亡生活に手を貸した。それが始まりだ。終わりは今のところまだわからない。
「――まさかっ……、中学生女子の苦肉の策のごとく数多の義理チョコにたった一つの本命チョコを混入させて表面上は『みんなにチョコをあげたのよっ』を装う人海戦術作戦をやるおつもりで?!」
 綱吉は鼻のあたりを赤らめて唾を飛ばした。
「お前だけにチョコあげてたらオレがホントにヘンタイだろ!」
「どーいう意味ですか。僕と沢田綱吉が交際してるなんて、それとなくバレてると思いますけど!」
「知るかっ! とにかくイヤなんだよっ」
 他人事だと思いやがって!
 胸中で毒づきつつも、綱吉はチョコ作りのための準備に手をかける。鍋も事前にちょっと洗っておく。
「〜〜おれはっ……、お前が、しつこいから、か、かわいそうだし。チョコあげた程度で大人しくなるなら作ってやってもいいくらいの気持ちなんだよ」
「ちなみに、女子からチョコレートは貰いました?」
「ヒトの話を聞けよお前?!」
 オッドアイは、神妙に綱吉の手元を見やっていた。驚愕の表情は先程から変えずに骸は質問を繰り返す。
「午後になったらハルが来るかもな。……日曜っつっても、しつこいだろーし」
「なら、それまでには僕と一緒にヘルシーランドに行きましょうね。エスコートして差し上げますよ」
(口説き文句のつもりか知らんが黒曜ヘルシーランドって廃墟だろ!)
 面倒になってきたので綱吉は適当に頷く。
「約束ですよ、沢田綱吉」
「あんまりくっつくなよな」
 首の後ろがくすぐったい。息がかかる。
 と、うなじをジッと眺めていた骸が柳眉を持ち上げた。不審そうに声を低くする。
「なぜ、鍋にお湯を? 沸かしたところでチョコチップの袋を開けますか?」
「え? 湯煎するんだろ」
「!」
 ぎょっとして骸が綱吉を見返した。
 大きく瞬きしながら、心なしか焦っていると綱吉にも思わせる態度で口元をまごつかせる。
「レシピは? 用意してないんですか」
 台所を見回し、探すそぶりをした。
「? 溶かして固めればいいんだろ。ほら、型があるだろ。丸いの。お湯で溶かしてコレにいれて冷蔵庫で固めれば――」
「インターネットで調べるくらいしたらどーですか?! それはチョコレートではなくゼリーや寒天類の作り方です!」
「はぁっ? あ、あああ! せっかく沸かしたお湯を捨てんなよ!」
「仮にもチョコ好き――僕はチョコに対する冒涜は見逃しませんよ!」
「だあああ?! なんか面倒臭いなお前?!」
 骸に場所を取られ、後ろで両手をわきわきさせている綱吉をよそに骸はカラになった小鍋をコンロに叩きつけた。
 何かを覚悟しているのかオッドアイを瞑る。眼瞼を、持ち上げたときには、断定口調で開き直った。――僕も手伝います。
「テンパリングって知ってます? 温度計を持ってきなさい」
「え? 熱でもあるの?」
「チョコレートはデリケートなんですよ。きちんと温度管理したものとそうしなかったものとでは味が違う」
「…………っ?! い、いたひ」
 骸の手で右のほっぺたをつねられ、綱吉は彼の右手首に両手でしがみつく。混乱してきている姿に骸もいくらか気分が変わったらしい。荒い息は喉に引っこめた。
「沢田綱吉。料理の経験は?」
「しょ……食パンをトーストするくらいは」
 ははぁ。イヤミったらしい嘆息だ。
「な、なんだよぉ。何だよっ。料理得意な中学生もオトコも少数派だろっ?!」
「ボンゴレ十代目の血統がなければ沢田綱吉はほんっと並以下ですよね……」
「さりげにヒトを全否定するなよ?!」
「本気にしないでください言葉のあやですよ。君は可愛いです」
「ぶっ?!」
 綱吉にすればタイミングが悪い、定番の口説き文句の果てに六道骸は脱力して腰が抜けた綱吉の前髪あたりに唇を押付けた。
「お、おまっ……」
 汗だらけの顔をカァーッと熱くさせて綱吉が負け惜しみめいた睨みを効かせる。
「待っててください。三十分で戻りますから」
「……マジか?」
 気弱に尋ねるのでは、やる気になっている六道骸は止められなかった。
 そして、本当に三十分で戻ってきた。
 しかも着替えていた。薄手のミリタリージャケットの下に迷彩のTシャツ。持参したクマ柄エプロンを、早速、腰に巻きつけてあごをしゃくる。
 綱吉の胸には、紙袋を押付けた。
「で、でえっ?! 料理のレシピ本ばっかりなんでいっぱいあるんだよ」
「買ってきました。プレゼントです」
「はあああ?!」
 頓狂な悲鳴は聞き流して骸は製菓道具を漁った。
 小さいボウルを二個、大きいボウルを二個、ヤカンの熱湯は大きいボウルにそそいで、小さいボウルへの浮力と温熱を分担させる。
 ゴムベラを握りしめると、背筋をぴしっとさせて美しく仁王立ちをやった。
「いいですか。これが湯煎です」
「お、おまえ……」あらゆるツッコミが脳裏を巡り、綱吉は二秒で一番言いたいことを選んだ。
「ノリノリでチョコ作れるんなら最初から自分で作れよな」
「恐ろしいほど味気ないこと言いますね沢田綱吉は」
 骸が右のこめかみから青褪めた。
「そういう純朴な思考もかわいいと思わせたいなんてホントに君は卑怯ですよ。将来的には調教していきますからね? 恋人のためならチョコレートくらいノリノリで精製できなくてどうしますか奥さまが!」
「自分が何を口走ってるのかわかってるのかーっ?!」
 全身全霊でツッコミしつつも、綱吉は両手で持ち上げていたボウルを――小さいボウルを――もう一つのボウルに重ねた。骸のやっていることの見よう見まねだ。
「お。おお。チョコが溶けてく」
 ボウルにいれておいたチョコチップが、みるみると融解した。ブラウンカラーの硬いクリーム。
「そっか。湯煎ってこうやるんだ。湯船っていってくれりゃオレもわかったのに」
「疑問があったんなら調べてくださいよ……」
 じろ、と、骸が綱吉の頭蓋骨の脳髄にあたりを付けて睨んだ。
 何事かを口中で呟く。ぶつぶつ。
「べつに、君が手作りしようとしたのに驚いたとか嬉しいとかじゃないんですけど。許す気なんて全然ないんですけど。そもそもなぜ僕が君のとなりで湯煎しているかというと買っておいたチョコはあるんですが僕も君に作りたくなったとゆうか僕の愛なんて存在しないものが見えるような嬉しかったようなときめいたような気がしないでもないから作ってあげてもいいかななんて僕の料理は犬か千種か凪にしか食べさせたことがないので少し不安なんですが最初の料理がチョコっていうのも、」
「ボウル、壊すなよ」
 猛然とゴムベラでチョコを掻き回しつづける少年に綱吉が半眼を向けた。
「君のためではないんですから!」
「ん、そうだな」
 眼が合いそうになったので綱吉は素速く彼方に両目の焦点を投げた。天井を仰望するハメになった。綱吉の頬の左右は火照ってきている。
「あいっかわらず、面倒臭いよな。お前」
「ヒトのこと言えます? 僕の手をこんっなに患わせておいて」
 それからは、チョコに湯が入るとかよそ見するなとかの注意ばかりになった。ドラマに出てくる姑かい、と、綱吉は脳裏でツッコミした。
「で、結局さ。骸が作ってるチョコはオレにくれるのか?」
「欲しくないんですか!」
「や、自信満々に作ってるから味がやっぱオレのとは違うふうに出来上がるのかなーとか……興味はあるな」
「クフフ。色気より食い気というワケですかね」
 達観したように鼻腔で嘆息してみせる。
 その骸の横顔は桜が散るのを惜しむのと似ていた。綱吉の錯覚かもしれない。
 クマ柄エプロンの胸を平手で叩いて、骸は強気に言ってのける。
「えーえ。……君が病みつきになるとっておきを作ってあげましょう」
「へー?」
 主に食欲と好奇心から、綱吉の頬がほころんだ。
 まったくの他意無く、これだけチョコにこだわる男が作るチョコなら美味しいんだろうなと思うからだ。
 手早くゴムベラでチョコレートが引っかき回される度に、濃厚な香りが広がる。チョコレートの味わいが鼻から口にこぼれてくるような良い匂い。お腹がすく。
 温度計を何度か確認して湯を変えているし、湯がボウルに入らないようにしているし、骸は手際がよかった。
「このようにして溶かします」
「うんうん」
「そして隠し味に」
「愛情とかベタなセリフはいらないからな」
「いえいえ。魔法の白い粉です」
 さらさらー。
 ジャケットの内ポケットから取りだしたビニール袋をピッと歯で破り、中身が流砂音を立ててボウルに注がれていった。
「…………」綱吉は思わず眼を瞠る。
 大きく丸くしたままのドングリまなこで、骸を見上げる。
「…………」
 骸は、しゃべらない。
 綱吉も三十秒はしゃべらなかった。血の気が引いていく音は頭の中で聞こえた。
「おい……。なんか今、おかしかっただろ。何を入れたんだ?!」
「魔法の――」
「何を入れたぁああああ?!」
 眼を反らし、含むように告げる骸の胸ぐらに思わず掴みかかる。
「まほ――」
「ちょおお、だ、誰かーっ?! なんなんだよ! 隠すよーなもんいれたのか?!」
「いえいえ。そんなことは。単なるヘロインを」
「隠せぇえええええええ!!」
 脳天がすっぽ抜けるほどの衝撃に貫かれつつTシャツを揺さぶるも、骸は脳みそがぐるんぐるんされる痛みにケロリとしていた。
 真剣な目つきで、人差し指を立ててくる。
「言ったでしょう、病みつきにさせると――」
「そらあ中毒症状だ! オレを殺す気か社会的に!」
「それはナイスアイディアですが。あ、ちゃんとそしたら僕が引き取る――」
「正真正銘殺す気かぁああああああ!!」
 骸への攻撃は無意味とわかったら後はもう骸のチョコにぶつかるしかなかった。
「あぁあああ?! 僕の犯罪級のチョコが!」
「まごうことなく犯罪の塊だろーが!!」
 中庭への窓ガラスを開けて、綱吉はボウルごとチョコレートを投げ捨てていた。
 がちゃんっ! 地面にバウンドして、中身がひっくり返る。心なしか黒い湯気が立ちのぼって感じられた。
「あぁっ。時価五十万ドルのチョコがっ」
「ドラッグの末端価格じゃないかそれ?!」
「ぐふう!」
 ツッコミも兼ねた右ストレートをふり向きざまに叩き込む。骸が後ろによろめいた。
 口角からこぼれた微かな唾液は、即座に手の甲で拭いて、負け戦に挑む武将のようなキザっぽい微笑みを作った。
「だって所詮は僕もヒトの子なんですよ? シロウトなんですよ? プロの味には及ばないのがわかっているなら手っ取り早く依存物質を混入させればいいんです! これで誰もが僕のチョコにメロメロに!!」
「十割方丸ごと間違ってんだよ!!」
 二撃目は、さすがに避けられた。
「リピーター続出間違いナシなのに! ただ、……ネックは原価が高いために一個ン百万というムチャな価格設定でしょうか?」
「逮捕の心配をしとけ、そこは! もうお前のはいいっ。チョコ作る。ほらっ。えーとテンパルング? ってどうやるんだよ」
「僕からのチョコが欲しくないんですか?」
「アレはチョコというよりドラッグだ」
「似たようなものですよ、どっちも程度の差こそあれ神経系を刺激して興奮させる」
「ぜんぜん違う!!」
 と、そんなやり取りはあったが綱吉のチョコ作り自体は順調だ。骸は役に立っていた。アドバイザーという意味では。
 型に入れようとした段階で、骸はハート型を差し出した。先程、自分で購入してきたものだ。にっこりと笑顔になっていた。
「どうぞ? 僕のチョコがダメになってしまって残念ですが、せっかくですから君がこれを使ってください」
「…………」
 まるでマラソンランナーに水を差し出す係のヒトのような爽やかな笑顔をされても……。
 とは、思ったが、しぶしぶとハート型をカウンターに置いた。
「どうも……」
「ハート型のチョコなんていかにも本命で僕なら絶対使いませんがね」
「お前、言動が破綻してるのもソコソコにしないと本当に病院行った方がいいんじゃないかとオレでも思うんだぞ?」
「破綻なんて……」
 嫌そうな呻き声だった。しかし骸の表情は嬉しそうだ。
(あ)ゾクッとした悪寒が綱吉の体に流れてくる。
「そういうこと言われると、僕、もしかしたら君のこと嫌いなんではと思うじゃありませんか」
「…………――」
 ぞぞぞぞ。綱吉は、背筋に羽虫がくっついたみたいになった。五十匹くらいだ。
 なのに、綱吉の頬は火照っていた。
(やばいな。わかってるのに……。ちえ。だからやっぱりこーゆーコトしててもお前は苦手だって感じてるのがなー。わかんないのかな? わかってるんだろうな)
「クフフフフフフフ。でも今日は、チョコ……。君にあげたかったのにな」
 あまり正視したくはなかったが、綱吉はとなりに立っている少年に上目遣いを送った。
 骸は鳥肌を立てていた。しゃべった傍から苦しげに口角を噛んだ。
 生理的に綱吉がダメらしいというのは、前々から綱吉にはわかっていたことだ。綱吉がボンゴレ十代目だからだ。
「……あげたくないんですけどね、本当は! 君にチョコをあげてオレも好きだよなんて言われたら死にたくなるじゃないですか! そういう意味では清々するかもしれませんがしかしとっておきのお薬使ってあげたのに捨てるコトはないでしょう、沢田綱吉!」
「うーむ……」
 発作的にべらべら並べ立てはじめる少年を放って、綱吉は腕を組む。眉は八の字になった。足元の血が頭に昇ってくる。
「……ま、オレのチョコをやるから。それでいーんだろ? 骸は」
「…………」
 オッドアイがちらりと下を向く。骸もいささか火照った顔で小さく頷いた。
(……あーあ。やだやだ。犬も食わないってかあああ)
「あ、常温でいいんですよ。ホコリ除けをしてちょっと置いておけばそれで」冷蔵庫に入れようとすると、制止された。
 気分を変えたいのか、骸は鼻腔から思いきりチョコレート臭を吸いこんでいた。部屋は濃厚に甘い香りでいっぱいだ。
「イイ匂いですね……」
「ちょっと甘ったるくてキツくないか?」
「チョコレートと沢田綱吉の匂いがブレンドされていて……」
 小さく呻く言葉の中身がケタ外れの怖さを持った気がするが、綱吉は一人で首を左右にふった。ツッコミはすまい。あえて。
「換気するぞ。おー、外の空気入ってこいー」
「情緒がない愚民ですね君は!」
「骸。庭のアレはゴミ箱でいいの? オレが逮捕されたりしないだろーな?」
「え? 食べないんですか?」
「ムチャ言うなよっ?!」
 庭の戸を開けて空気をめいっぱいに吸いこんだときだ。
 綱吉は俊敏に飛んで跳ねてキッチンカウンターの片付けに手をつけた。
「沢田綱吉?」
 骸がきょとんとして、次の瞬間だ。
「十代目―っ!!」
「ツナさあん! 今日は何の日でしょうかあああ!」
「骸! 時間稼ぎして!!」
 ――はい。すばやく状況を察知して骸は右手を掲げた。
 クマ柄エプロンの男の右手に三叉槍が収まる、異様なビジュアルだったが綱吉は後ろを確認する余裕もろくになかった。
「怪我はさせるなよ。五分でいいからっ」
「殺しちゃだめなんですか?」
「ダメだああああああ!!」
 鈍くさいと言われることがある綱吉も、この状況ではマッハで動き回れた。
 窓という窓を開けてエプロンを脱ぎ捨てて、玄関に駆けこむ。時間は一分経過というところで綱吉の友人も骸に驚いている段階だった。
「ツナさんをどこにやったんですか。ツナさんはそんな人じゃありませんっ」
「てめー、ほいほいウソつくのもいい加減にしろよ!」
「あれぇ。六道骸がなんでここに……」
 ハルに京子に獄寺に山本。お馴染みのメンツと向き合う骸は三叉槍片手にきっぱり言い張った。
「沢田綱吉は男女関係のもつれで家出せざるを得なくなり……」
「誰がテキトウなホラを吹けと言ったぁああああ!!」
 駆けつける筈が、骸への体当たりとなった。
「っと。片付けたんですか? まさか彼らにもチョコ作るとかいいだしませんね?」
 こそりと、耳打ちされた。
「あ、ああ。大丈夫だと思うよ」
「そうですか。……や、嬉しくはありませんが!」
(こ、この男……)
 半眼になって骸を睨んでしまうも、彼が内心で浮かれているのは一目瞭然だった。
「クフフ。手加減はここまでですよ! 輪廻の果てより舞い戻ってきました!」
「戦う理由がないだろうがっ!」
「いたっ」
 背中を強めに叩いてやってから、綱吉は仲間の方へと歩み寄った。
「ごめんな。骸がなんか知んないけど遊びにきててっ……! なかなか帰ってくれないんだ」
 零度の冷気を瞬間的に感じたが、それは忘れておく。綱吉はムリに笑った。獄寺とハルが口々に呻いた。
「追い払いましょうか?」
「ツナさん。外いきません?」
(お、おお。やっぱり物凄い勢いで嫌われてる!)
 後ろを見やれば、骸はエプロンを外しながら怖い顔をしていた。
「どこか出かけるなら僕もついていきますが?」
「お前、最近ほんとよくいるよなー」
 他意があるのか無いのか、山本が呟く。
 そこで、絹を裂いた女の悲鳴がこだました。キャアアアアア!
「?!」
 一同が強張る。
 真っ先に動いたのは骸だった。
「おかあさん?! どうしました!」
「誰がお前の母親だっ?!」
 次に、慌てて綱吉が追いかける。家の玄関を出てすぐ、柵の内側で沢田奈々がしゃがみこんでいた。
「忘れ物を取りにきたら……っ。何があったのかしら?!」
「か、家庭内暴力ですよ既に!」
「結婚してねーよ!」
 後ろ髪を掴まれた骸が身をよじって抵抗している。二人が揉めている間に、獄寺達が奈々を助け起こした。
「こ、この人っ……?」
「きゃああ?!」
 ハルと京子も悲鳴をあげた。
「し、死んでるぞこいつ!」
 綱吉は、まだ骸の髪の毛を掴んでいたが唖然と眼と口を丸くさせた。
 玄関を出て柵のところまで歩く、わずか二メートルの短い距離で男が倒れていた。頭から血を流している。血痕は、しかも、沢田家の方に伸びていた。
「さ、……殺人事件?!」
 信じられないといった綱吉の悲鳴は澄み渡った空にこだました。

つづく



10.2.12

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