※グロテスク表現、気持ち悪い表現あり








スカルレイン




 ここはどこだろう?
 知らない世界に閉じ込められたという非現実的な体感があった。この感覚は知っている。幻術師の空間にいるのだ。
 疑いがきちんとした結論になって意識に昇る――一連の思考プロセスを果たす以前に、彼は、綱吉の前に現れた。
 ここはどこだろう、夢かな? そう思ってから五秒の短さだ。
「……お前は」
 程なくして、あたりの暗闇が悲鳴によって乱されるようになった。
 訳もわからず、無力化された両腕をふりあげる。地べたに転びながら走りだそうとしたが、綱吉にはそれを完遂できるだけの体力がなかった。
「も、もぉむりィ……ッ、はいらなひよぉッ! やめっ、っっあっ!」
 いつの間にか、どしゃ降りの雨が荒れ野を濡らした。
「げほっ、げほ! ガハッ。うげ……え……ッ、ぐ、あっ、はっ!」
「もう一発入れましょうか?」
 文字にすればキャンッとも表現できるような甲高い悲鳴が起った。どてっ腹に膝蹴りをめりこまされ、綱吉は苦悶しながら骸の肩によりかかる。
「げえっ……ァッ……」
 ぼたぼたと、透明な液体が口角をこぼれていった。
 吐しゃ物は単なる水だ。
 緩慢な動きで、骸は硬いももから成り立つ己の右膝を綱吉の腹から引き抜いた。足元に崩れた綱吉はさらに水を吐いた。
「これで、入るようになったでしょう?」
 呑気ですらある掛け声だった。骸は雨塗れのテーブルチェアからティーポットを取り上げた。
 雨は東の方角から降り注ぎ、ポットの中身になみなみと波紋を作る。
「…………っっ」
 ぜひぜひ、奇妙に掠れた音色が頭の中を反響して狂わせていく。
 綱吉は真っ白な顔で骸を仰ぎ見る。
「や。やめっ……、はっ、はあ、はっ、苦しっ、もうヤダぁっ。は、入らなぁ、あっ、んぐ?!」
 綱吉の鼻を摘んだ人差し指と親指が、ぎゅっと指先に力を入れた。
「ゴクゴクいっぱい呑むんですよ?」
「んぅうううう!!」
 咽喉の根近くまでティーポットの注ぎ口が突っこまれていく。
「君は忍耐強くて心の優しい子でしょう? これくらい全て飲乾せる」
 両手で握りしめた土のかけらが爪に潜りこんでくる。うずくまったまま動けなかった。綱吉の瞳が正円に見開かれていく。じゃぼじゃぼじゃぼッ。
「がァッ――。ごぼぼぼっごぼっ。げはっ。がっ、あ”―っ……、あっっ!!」
 全身が岩のように重くて硬いのに、肩のあたりからガクガクした痙攣が始まった。
(い、息、がぁっ……!!)
 無理に飲まされる苦しさに、鼻での呼吸すら行えずに綱吉が悶えた。
「あ……ひぃ……っ!!」
「くくっ……」
 茹であがるような汗顔で苦境に青褪め始めている少年の鼻頭に近づき、骸は艶やかに微笑を浮かべた。
「いやですね。惨めきわまりないですよ。ボンゴレ十代目」
 ポットを口から抜かれるなり、綱吉は体を丸くした。水を大量に吐いては咽せる。
「くふふ。おかわりは無限にありますよ?」
 よくできた給仕役さながら、骸は右手首のスナップを効かせてティーポットを雨中に差し出した。
 少年の六道骸は残酷だった。綱吉の知る人間の内でも、残虐性はひときわ高く、他人を虐げる嗜好を抱くという面で厄介な相手。
「がはっ、あっ、げぼっ、けほっ……!!」
 吐けるだけ吐いて、涙を目に滲ませる。
 ロクに動かせない頭部をどうにか傾げて骸を睨みつけた。
「あんで、こんあ、ことっ……?!」
「もう少し吐かないと次がもっと苦しいですよ? お腹がはち切れそうなんでしょう?」
「ひゃぐあッ!」
 手加減のない蹴りが腹に決まる。
 綱吉がしゃがんだ体勢を捩らせてもんどりを打った。
「あっ、あ”―……っっ、がはあ、がっ。げぼっ。げほげほっ!」
「面白いように溢れてるじゃありませんか」
 体がやけに重くて不自由で、指の一本ですら綱吉は満足に動かせなかった。
 うずくまっている綱吉のあご下に手を潜らせ、自分を見上げるにちょうどいい角度まで持ち上げると骸は満悦の笑みでびしょ濡れの顔面を彩ってみせる。
 雨の一滴が重く、着ている制服を貫いて生肌に鞭打を浴びせつづけるようだった。
 骸の黒曜中制服は雨で黒く汚れていると綱吉には見えた。拷問管の黒服にすら錯覚して感じられた。
「ひゃ……ぐゥ……あ……っ」
 下顎から喉首までを大雑把に掴んだ手が揺すぶってくる。
 呆気なく気分が悪くなって綱吉は喉から溢れてくる胃液混じりの水泥で咥内を溢れさせた。どろっとして口角から垂れていく。
「あうぅ…ッ」
 体はおかしいのに、痛覚や味覚は正常に生きていた。
 こみあげてくる嘔吐物のまずさに泣き顔を顰め、舌を口蓋の上側に逃げさせる。上から見つめている骸には愉快な表情だったらしい。間近に迫ったオッドアイが侮蔑と歓びで震えている。
「最低ですね。汚い。沢田綱吉。……僕の手を汚していいと思ってるんですか?」
「…………っっ!」
 くる、と、綱吉が思った次にはティーポットを咥内に差し込まれていた。喉から下がまるごと溺れそうになる。
「ほォら、こぼさない! 僕の手を汚さずにたいらげてみせるんですよ!」
「がぼっ、がぼごぼっ」
「君のそういう姿を見てると興奮してきます。これは? 苦しいですか?!」
「あがぁっ?!」
 喉に直接流し込まれている最中に、腹を革靴が蹴り踏み抜いてくる。
 綱吉の瞳の焦点が頭頂近くを向いた。
 靴裏でふくれている腹に体重をかけてグリグリにいたぶり、骸は笑みをさらに卑屈に汚した。綱吉はもはや吐くも呑込むもできず、呼吸ができない苦しさと腹の激痛とに悶えて背筋をびくびくさせている。
「……ひッッ、ひゃア”……、死んじゃっ……アがあッ」
「死ねばいいじゃないですか」
 それぞ至福といった満笑みで応えて、骸はティーポットを投げ捨てた。白い陶磁器が音をたてて割れる。
 ひとしきりに蹴って、それで吐かせようとした。綱吉は、後半にはもう声をあげる気力が潰えていた。地べたに伏してしまうと、骸は綱吉の後ろ髪を手で掴み上げ、自分の腰の高さまで頭を運ばせる。
 膝立ちになりながら、綱吉は自失しかけている両眼をまばたきさせていた。
「気分はどうですか? 僕に虐げられるのって君には特別な屈辱なのではありません? だって君は僕が嫌いでしょう?」
「……なんで、こんなこと……?」
「この空間に意味を求めているのですか?」
 世紀の大馬鹿者を見下す目つきになって、骸は冷酷に放笑をあげる。
「僕は、だから君が嫌いなんですよ」
「あ」感覚的に、綱吉も覚悟を持てた。空間がまた少しよじれる。気付いたときには、プールに頭から突っこまされていた。
「がっ……?! ア?!」
「そーですねえ。このきったない池の水を全部飲めたら会話に応じてあげてもいいですよ!」
 掴んだ後ろ髪を引くと、びしょ濡れになった頭が出てくる。
 綱吉は、許された時間全てで水を吐こうとしたし、呼吸を貪ったが、ごくごく狭い範囲での自由だし短かった。
「げぼっ、がぼぼっ。が、あっっ!!」
 すぐに、骸の手ごと水に沈められる。
「ンん。イイ感じですよ、そうやって手足で藻掻いてくれると僕好みだ」
「…………っっ!!」
 そうしたプロセスを繰り返されていく内に、綱吉は骸に声をかけられても返答すらろくに出来なくなった。
「まだ意識はあるんでしょうね?」
「あ、は、あ”ー……ッ」
 口からだらだら水を垂れ流しつつ、綱吉がうつろな目に世界を写す。
 荒れ野が広がる。赤茶けた大地はお世辞にも美しいとは言えない。地面に池が落ちていてそこで不可解な嬲りを受けつづけている。
(れ……、冷静に、か、考え…………)
 必死になって、息苦しさと眩暈と吐き気と腹を破裂させられかねない苦悶を堪える。
 このままでは殺される。その危機感が綱吉を駆り立てた。
 つ、と、いたずらに指先が綱吉の頬のラインをなぞっていく。
「何を考えてるんです?」
 顔を近づけてきた骸が、深い笑みを口角に刻んで悦に浸る。
「こんな状況になってもまだ君には大事なものがあるんですか? 僕の眼を見なさい。苦しいのも気持ちよくさせてあげますよ?」
 汚泥にまみれ、雨と吐いた水とで汚れきった頬に軽くキスが押付けられた。指先のかわりに細面の顎先までを唇で舐めていく。
(なんで……)
 恐らく、骸にとってこの質問がタブーなんだろうと分かりかけてはいた。
 綱吉は喉で堪えて別の言葉を吐きかけた。
「もおやめろ……。おまえの、思い通りには、ならない……から」
「まだ飲み足りないんですか?」
 オッドアイを丸くして、骸はまたもや綱吉の後頭部を推し進めて水面スレスレの位置で固定させる。
 背後からのし掛かるようにして、彼自身の顔も綱吉の近くに置いた。
 雨が、飛び込んでしまえとばかりに背中を叩いた。
「いいですよ。君のお腹が破裂するまでたっぷりタプタプにしてあげても。くふっ。ちょっとえっちでしょうね、その光景は。僕が君のお腹を膨らませてあげますよ……、限界まで」
 いかがわしさを感じさせる手つきが、濡れそぼった白シャツ越しに綱吉の腹部をまさぐり撫でた。実際、綱吉はそこが膨れていると感じていたし、触られるだけで吐き気がこみ上げた。
「っう……。へ……、ヘンタイに、つきあえるほど、ヒマじゃない……」
「嘘おっしゃい。現実が辛かったくせに。でなければ君ともあろうものが僕にここまで精神を侵略させてるワケがないんです」
「げ、げんじつ……? 何の、はなしを」
「よくわかりませんが現実がよほど辛いんでしょう? 忘れさせてくれるなら、痛みでも僕でもなんでも構わないとチラッと思ったんでしょう? 奇遇ですねえ、僕もね、君と戯びたかったンですよ」
(現実って、どこで、なにしてたんだっけ……?)
 あやふやで、よく思い出せない。
 そこで心からゾッとした。綱吉は愕然として骸のオッドアイを肩越しに見やる。
 彼は、やはり笑っていた。
 しかし思うことがあるのか水辺から綱吉を引き摺ってきて地べたに座らせた。
「……君のこと自体は、割りと好きなんですよ? 長く見ていたいと思える逸材だ。けれど君はあまりに僕に憎まれる要素を多く持っている」
(名前は、沢田綱吉だ。十四歳。今は、一時的に、十年後の世界からこっちに戻ってきていて、アルコバレーノの試験を……。そうだ、そう。この前は骸とも会った。ヒバリさんと戦ってた、骸は)
 前後関係を必死で整理しようとする、その綱吉の努力が感じ取れるのか骸は笑みをますます粘着質なものに変えた。
「……だから、たまには戯んであげたいと思ってしまうんですよね。君を見ていると。君には虐げてくれる第三者が必要だ――、僕にはわかる――最近、髑髏から報告を受けたんですよ」
 どしゃ降りの雨をものともせずに――この幻覚世界の主であるなら、当然だ――骸は演技かかった身振りで胸中に頭蓋骨を収めてみせた。
 出し抜けに、彼の体がブレて、何もないところからの出現だった。
 白い外殻にぬるりとした骸の白い手が絡みつく様は、いやに扇情的で、エロティシズムの鱗片を伴う。
 体を叩いてくる雨の痛みもあって綱吉は湿度の高まりを感じてしまった。
 いけない。
 術中に嵌りかねない――警告めいた赤灯が脳裏で点滅した。
「僕の、かわいいドクロからね……」
 性的衝動を喚起させるかのように、骸はゆっくりと白くくたびれた頭蓋骨を口元に運んだ。カリッ。微かに前歯を立てる。
 可愛い女の子でしたね? 彼女が日常的に発しているものが、君の体にはもうこびりついているようでしたから――たかが三日で染みこめる量ではないのですが――その矛盾は、今のこの歓びの前には些細な疑問として片付けてしまえる。いわば、ね。このドクロは媚薬めいたものを君の体に刷りこむわけだ。僕のための補助装置。汚染を促すための。
 骸は、静かに語り部としての演技を続けた。
「かわいらしいスイッチでしょう? この子もまた僕好みだ……。君みたいに重度のお人好しが囲ってあげたくなってしまう、仔犬ようにか弱くて大人しくて引っ込み思案の可愛いネズミ取り機……」
「…………っ!」
 彼が奏でる旋律に驚愕するというより、綱吉は骸の発する視覚的な幻術に意識を奪われていた。
 クローム髑髏のことだろう、彼女が、骸の仕掛けた罠を内包していたとしてもある程度は予想の範囲内だ。今の自分には――骸と出会った頃とは段違いの力を手に入れた――さして問題ではないと感じられたが。
「君もまた僕には仔犬めいた玩具に思えますがね……。かわいい、僕のドクロ」
 骸が赤い舌肉をチロリとさせて頭蓋骨を嘗める、その間にも視覚幻術が綱吉のマインドを痛め付けていた。
 ぴしぴし。頭蓋骨は徐々に筋肉に覆われていった。
 真っ赤で赤く爛れたミミズ状の何かが、ドクドクと脈打って筋肉に実をつける。それらの隙間を真赤な血管のホースが走り、人のうわべを造りあげていく。
 胃袋の底からこみ上げてきた吐き気に、綱吉が眉間を歪めた。
「ぐ……う」
 水でたぷんッとしている腹の内側が震える。
 足元で蹲ったままに睨みを効かせてくる綱吉に、骸は機嫌を良くして人の頭に変貌しつつあるものを一回転させた。
 笑みを含んだまなこが、満足げに血と筋肉で彩られた禍々しいものを見つめる。
「僕にはね。たまに油断すると人間はこう見える。美人だとか顔が良いだとか、皮膚の上辺がなんだというんです? こんなに可愛くても人は肉と血と骨の集まりにしか過ぎない醜い玩具ですよ? 皮膚の下には醜いミミズのような生き物をたくさん飼っている。僕もきみも所詮は醜くしか生きていけない」
 語り終えるころには、人頭は完全に生首となって骸の腕中に閉じ込められていた。
「……君にもこうやって僕と遊んで欲しいのですが」それが最近の僕の望みです。冗談めかして言うが、綱吉の体内は痛いほど凍った。
 骸が、笑顔で、こちらの表情を覗きこんだ。
「ほら、なかなか楽しそうに眠っているでしょう?」
 両頬を手で包み、自慢するように少女の首を綱吉に差し出してくる。
「…………っ!」
(幻覚、だ。ホントは、骸は彼女を殺してない)
 奥歯を噛みながら、自分の心の声に励みを得て、綱吉は浅く首を左右にした。
 けほっ。さんざん飲まされた水が、喉をあがってきて口元を新たに濡らした。どしゃ降りの大雨に起つ少年は、しばし――ゾクゾクときたかのか眼で笑って――佇むだけになった。
 生首の後頭部を右肩にひっかけるように押付けて、下顎を包みこんで手に持っている。バケツを返した雨が血の気の失せた少女の頬をすべり、涙以上の分厚い水の膜を滑らせた。豪雨の中に立てば誰も彼もが号泣しているように眼に見えてしまった。
「……髑髏は僕に忠実ですから。犬が、いけないことをしたというのを教えてくれた。場合によってはとても可愛らしい粗相ですよ。ねえ。僕は君が虐げられて泣いて許しを乞うような場面が見たいのです。ですから――」
 彼の告白が始まってそう長い時間を待たず、綱吉は強く願うようになった。
「!!」
 一秒でも早く、目覚めなければ。

 

 上半身を直立させて跳ね起こし、弾みで布団が半分もベッドから垂れた。
「?!!」
(あ。ぱ……、パジャマだ?!)
 黒く濁った室内を見渡す――自分の部屋であることに驚いて、心臓がどきどきしてくるのにも絶句してしばし考える。
 自分がパジャマを着ていることに心から安心できた。目頭が熱くなる。ハンモックに家庭教師の姿はない。ハンモックがある。自分の部屋で間違いなかった。
「夢……か」
 体から、力が抜けた。
 屈んだ体に添え木をつけるように、片手で額を抑えた。猫背になって嘆く。
「ひっどい夢だな……」
 安堵しながら、後悔できた。
(疲れてるんだな。あんなに好きにされるなんて……。久しぶりに骸に会ってから、動揺してたのか、オレは)
 無意識の内に、骸を招きよせてしまう準備を心中で終えていたのかも。骸がクロームに何をしかけていたにせよ、原因は、自分自身にあると綱吉には強く思えた。
(だって本当のことだから……)
 骸が気になっていた。
 十年後の世界では骸の情報が途絶えているし、生死だってわかっていない。その疑問を今の彼にぶつけても伝えても解決しない、それがわかっているから余計に綱吉はもどかしくなるのだ。
(……こーいう悩みを、アイツは隙だって名付けてつけ込める男なんだ。油断しちゃいけないんだ)
 自分に言い聞かせる。
 そうして、綱吉は布団をめくった。頬は俄に火照っている。肌には、まだ、ぬるりとして湿った感覚が残っていた。
「トイレいってこよ……」
 びしゃびしゃに濡らしてくる夢をわざと再現するなんて、彼の悪戯は度を超えて陰湿だと思った。
(気持ち悪いヤツだってわかってるのに。頭の中であんな想像ができるだけで……)
 綱吉には理解しがたい世界観だ。骸が見てきたもの、今の彼を作るバックボーンを知っているから、それでも完全に百%軽蔑できるかと問われたら躊躇するけれど。
(…………)ふ、と、下唇にわずかにかかる程度の嘆息を短く吐いた。
 裸足を床のカーペットにつける。
 そのときだった。下顎が叩き割られるような衝撃が降ってわいた。
 後ろに転がり、ベッドに倒れる。つづけざまに喉首めがけて強烈に殴打され、息がつまって一瞬だけ視界が白くなった。
「ぐぅ――?!」
「しぶといですね。知ってましたがね」
 平坦に吐き捨てる、声。
 綱吉が視界を持ち上げるより先に、続けざまに殴られて壁の方に体が回転した。
 また仰向けになったところで、腹の上に、革靴が――黒曜中指定の黒光りするものが、カカトを叩き下ろした。
「ぐっ!!」
「こんばんは。沢田綱吉。どうでした、僕のプロデュースした悪夢は?」
 したり顔でベッドに土足で昇ってくる。じろじろした観察眼で眺めてきて、六道骸はナナメに刻んだ笑みをさらに鋭利に凍らせた。
「……脂汗だらけですね? 充分に苦しんだようで何よりです。まだお腹いっぱいなんですか、ええっ?」
「……お、お前。むくろ? どっから――」
「僕を霧と名付けたのはそっち側でしょう? 霧の特性を与えたのは君だ」
「クローム、しっかりして――ッ」
 反射的な叫び声だ。今の骸の本体となる少女に呼びかけるも、骸は面白そうに口唇のふくらみに指の第二関節を差しかけただけだった。
「彼女の何に救いを求める気分になれるのか、理解ができませんね。教えた筈ですけど。この子は君の部下ではなくて僕の物だ」
「……どけよ!」
 物理的な痛みと、蘇った悪夢のイメージと、現実の骸の理不尽さで腹の底がえぐり取られる気分になれた。
「骸! もう何も言うな。お前と遊んでる余裕なんて、オレには――」
「ハイパーモードですか?」
 綱吉の激情を軽くいなして、骸は片足を押し下げた。
 ベッドに仁王立ちして足元で転がっている少年を突つき蹴る、それまでの動きとは一変して素速くするりと潜り込んだ。
「っ?!」綱吉が身を起こすより素速く、骸の右足がパジャマの股間に沈んでいた。ぐっと体重をかけてくる。
「あー。やっぱりオネショまではいかなかったんですね。沢田綱吉は犬ほどの単純バカではないとゆーことですか。ま、想像した通りの誤差ですよ。残念ですがね」
「?! ?!」
 恐ろしい程の棒読みで呟く骸の表情を、下から何度も確認していた。
(こ、こいつ)
 にやにやした意地悪い骸の微笑みから、綱吉は悪意と害意しか感じられなかった。
(悪夢より、よっぽど現実のこいつの方がタチが悪いじゃないか……ッ!!)
 悪夢の方は。骸の創造したイメージが視覚的に綱吉にも伝わるため……、まやかしであったとしてもほんの少しだけ妖しい美しさを感じてしまうのだが。現実はそれどころではなかった。
「ほーら。どうします? このままハイパー化してみます?」
「て……めぇッ……」
 同じ男として、ヒトとして、目の前の少年を受け入れがたく思う。
 生理的な嫌悪感が反発の大部分を占めた。
「――その足をどけろ!!」
 怒りを虚空に走らせる。眼を細める、感覚が無いはずの髪の毛の先にまでピリッと電撃が通った。
 ハイパーモードのオレンジカラーと化した両眼に骸が映った。
 彼は、舌なめずりも兼ねて唇で濡らした音を立てた。
「笹川京子にも悪夢を――」
 殴りかかるべく――、両手に炎を生み出そうとした綱吉が全身を凍らせる。
「……何っ?!」
「――レイプしてきちゃったんですけど、どう思います? 沢田綱吉」
 早口でまくし立てられたセリフの中身に、眼が飛びでそうになる。彼は簡単に笑みをこぼす。
「すき、有り」
 前に体重をかけてきた骸の足が、靴裏で急所を踏み込んだ。
「ッッ!!」
 がくんっとして綱吉の背中がベッドに落ちて仰け反った。あと少しで野太い悲鳴が喉を通りかねなかった。
「てめ……っっ!!!」
 額にまとわりついた炎が揺れた。凛々しい顔立ちを崩して奥歯を噛みしめている。焔に煙る双眼が屈辱で歪む。
 その表情だけで骸を昂ぶらせているらしかった。
 彼は肩での呼吸を始めて股間をごりごりと揉み潰すような圧力をかけてくる。
「この六道骸が小娘一匹のつまみ食いを躊躇うと思いますか? しかも、絶対に君が激怒するとわかっているものを!!」
「お前……。まさか……ッッ」
 オレンジの瞳が中身をくるくると回して混乱し始める。
「アキレス腱を剥き出しで放置した君がいけないんですよ、沢田綱吉」
「……ぐぅッ……?!」
「君は悪人から恨みを買ってまわる割りには身辺警護の感覚がゼロに等しい。そういう点も含めて、マフィアには向かないんですよね。マフィアなんて……、いいえマフィアに留まらず君が関わっている連中なんてね、恋人や愛人、家族に娘息子を人質に取るのは常套手段な下劣な連中ばかりですよ? 甘いですねぇ。反吐がでる。君はバカだ!!」
「…………っっ!!」
 しゃべり続けながら強く踏みつけられ、言葉にならない悲鳴が足元から脳天までを突き抜けていった。
 しかも余韻が恐ろしく酷くて全身にじんじんと熱痛を刻んだ。
「がっ……!!」
 綱吉が手足でシーツを掻き毟る。
 敏感に過ぎる箇所は、かけられる圧迫が微増するだけで腰砕けの激痛を受ける。涙目で打ち震える綱吉に、熱い眼差しを注いで、骸は、頷きながら嘲笑って否定した。
 なんてね、嘘ですよ。
「お楽しみは、少しずつね。特に君はじっくりと身も心もぼろぼろに堕としてあげたい相手ですから。沢田綱吉」
 僕は呼吸と同じように嘘がつけるんですよ。軽やかに罵りながら冗談を言われても、思考の回転数が落ちてきている綱吉には意味がわからなかった。
「なぁっ……?」
 混乱してくる。痛み以外の理由で眼を丸くした。
「て、は、出してないのか」
「ええ。手は出してません。安心、しました? ええ?」
「ふッ。あッッ。ぐ、ぐぁあ……!!」
「さァてもういいでしょう。見せて貰いましょうか? 君の体に無慈悲な欲求を植えつけることには成功したと思うんですが?」
「や、やめろっ……」
 血の気の失せた呻き声を漏らし、綱吉がごくんと硬い唾を飲む。
 そんな些細な仕草すら骸には喜ばれた。
「ふ。くふっ。くははっ。やめてと乞われて止める男に見えますか、この僕が?!」
「ひぎぃっ?!」
 腰骨の芯にムリに空気を挿入されてるみたいだ。痛みがプクッと眼の裏で弾ける。
「アァアアアアアッ?!」
 通常の体感を超えた劇薬じみた陣痛に全身が跳ねた。
 炎を操るにしても、暴れて逃げようにも、圧倒的な痛みで脳髄が満たされてうまく動けない。全身の神経が狂ったように痛い。
 連続してカカトで踏みつけるのは止めたが、最後の一撃とばかりに強く踏まれて手足が跳ねた。
「ひゃぐあううっ?!」
「くふ、はっ。はあ。踏み潰してあげましょうか」
「……ウッ。ううっ。て、てめえ…」
 見開かれた両眼から、涙が滑る。
「そうです……。こういうのが見たかったんですよ!」
 自分の興奮を隠しもせず、骸が声を荒げて勇んだ。
「そのクソ生意気そうな澄ました顔を屈辱で歪ませてやりたいと……。あのときのこと覚えていますか? 僕に小汚い慈悲をかけて見逃そうとしたあの時のことを!!」
 骸が、あのときにそれほど傷つけられていたとは知らなかった。
 だが綱吉は後になってからそう思った。
 今は、気が狂うような痛みに打ちのめされて声にならない悲鳴をあげるしかできなかった。急所がひしゃげる痛みはダイレクトな赤波となって肉体を針で貫く。
「〜〜〜〜っっ!!」
 獣めいた絶叫に、骸は悠々として答えを返す。嬲り抜く喜びに頬が紅潮していた。
「もっと惨めに苦しみなさい。さァ気がおかしくなった生娘みたいに泣き叫んで許しを請え!!」
 歯茎を剥き出して、綱吉がぶんぶんと頭を左右にする。それでも骸は喜んだ。
「ハッ。粘りますねえ。ではこれは?」
「イィッ?! い、いたっ、いたひぃいっっ。ウアアアアアッッ!!」
「ほらほら。脆弱ですね。痙攣してきましたよ?! 何を耐えているんです、沢田綱吉! バカですか!!」
「イヤだっ、いッッ……。ああああッッ」
 かけられる重圧が巧みに変化するのに連動して、ベッドがぎしぎしに軋んだ。
 体を起こそうとする度に手酷い痛め付け方をされて、綱吉が炎の鱗片でも生み出そうとするものならば骸は全体重を足にかけた。
「では……ッ、こういう刺激はっ?」
 骸の息がぜいぜいと掠れて乾上がりかけている。
 手を掲げる。幻覚には耐性が高く効きが鈍い、その自負がある綱吉が眼を瞠った。
「がぼっ?!」
 水の音色がしたと思った次の瞬間、ボール状の球体で頭を覆われていた。
 水を超えたところで、骸の右目が怪しげな一文字を光らせていた。
(げ、幻覚だ。幻覚っ……。クソッ、わかって、わかってるのにっっ)
「ごぼぼっ。がはァっ。っ〜〜〜〜!!」
「クフフ。随分といやらしいんですね? 膝と肘をガクガクさせてまるでイッてるみたいですよ? 淫らな本性じゃありませんか……っ。すべて、見せてみなさい? 恥ずかしがらずに!」
「んゥッッ。ん……っっ!!」
(い、息がっ。できな――)
 股下から永続的に送り込まれる激痛が、脳髄から思考という骨肉を抜き取る。
 もう踏んばることができなくなった。
 ガボッ。多量の空気を水中に吐きだしてしまうと、そこからは早かった。手で掻き毟っても水は水でしかなく綱吉の頬を乱暴に引っ掻いただけだった。
 額の炎が、猛風を浴びたロウソクの灯りと化していく。
(あっ――、ぐう。あぐぅ)
 悲鳴にならないものが血管の一本一本に詰まって血栓ができるみたいだった。体が隅から壊されるような酷い痛みは、眼の裏を通って涙に変じた。
 ごぼぼっ……。
「……――――っっ」
 限界がふいに訪れた。
 水中で喘ぐように綱吉はオレンジにくすぶる瞳を細めた。
 赤く充血した両眼が曇った濁りを浮かべる。
「く、ふ――」
 骸が、笑みを深く陰湿に変えた。
 頭を抱えていた。綱吉がそうすると同時に水が弾けて呼吸の自由が戻った。だがもう遅かった。後ろに倒れ込みながら綱吉は立て膝をすり合わせた。内股にすり合わせるその動きは、恥じらいに他ならなかった。
「…………っっ!!!」
「あーあ……」
 鼻腔で嘆息をつきながら、骸が忍び笑って自らの下唇に指の第二関節を押付ける。クスクスとして肩で笑うに至る。
 足の裏から、じょろろっとした奔流を感じている――その正体は、綱吉にはわかりきっていた。
 は。あ。はあ、はっ。
 酸素を貪りながら、脂汗だらけになって濡れたパジャマの上半身を抱きしめている。
 オレンジ色の瞳には、涙がはっきりと浮き上がっていた。
「や、やめろ、見るな!」
 引き攣った悲鳴が部屋に響いた。
「そんなボロボロの体で失禁しながら強がって何の意味が?」
 骸がひどく掠れた声で面白がる。刹那的な光と、シャッター音がこだました。綱吉がようやく顔をあげた。
「……何をしてる、お前?!」
 赤く腫れた顔に浮かぶ羞恥も後悔も、正確に記録されていた。骸の手にはデジタルカメラがあった。
 止めさせる術がわからなくて綱吉は顎にまで涙を滑らせていた。
「む、骸っ……?! なに、を……して……っっ。やめろよ。やめろ。もうやめろ!!」
「なかなか、そそられる絵面ですよ。沢田綱吉」
「やめろと言ってる!!」
 鋭くなじったが、号泣しながらでは凄みに欠けていた。
 まだ断続的にぶるぶるしている股間部は脱力しきっていて人形の足みたいになっていた。手袋をつけた骸の手が、苦労もせずにパジャマのズボンのゴムをくぐり抜けた。
「うひぃ……っっ?!」
 らしくない悲鳴すらあげてしまって、綱吉はすっかり取り乱していた。
「離せェ! 馬鹿! オレに触るなっ。来るなっ! 笑うな!!」
「ガキ臭いじゃないですか。ほら、ちゃんとぜんぶ出せたか確かめてみないと。今の君は……そのハイパーモードとなると、沢田綱吉はとびきり強情になりますものね?」
「ひッ……いいぃっ……?!」
 握られたものが、性技じみた悪戯を与えられる。
 足が、付け根からおかしくなった。ぢょろっ……。飛沫まで出し切るのと同時に、綱吉の額から炎が失せた。
「……っ!」オレンジに鈍く光っていた双瞳が、綱吉本来の薄茶に戻る。
 しかし涙で煙るのは変わらない。
「ひッッ……あ……」
「…………」
 薄く笑いながら、骸がびしょびしょになった手を引き抜いた。手袋の湿り気を報せるように綱吉のパジャマの胸を軽く触る。
「ヤダぁあっ……!」
 ぽろぽろに涙をこぼしてしまいながら、綱吉が粗相を発見された幼子同然に泣き言をあげた。膝をすり寄せ、体を丸くする。
「ヤダッ。違う、おれ、こんなつもりじゃなかった。やだァアアア!」
「いくら泣いてもママは助けてくれないんですよ?」
 愉しみながら吐き捨てて、骸がまたシャッターを切った。
 綱吉が雷を見上げるように戦慄して顔を持ち上げる。
 今すぐ骸に襲いかかって奪取するという選択肢が脳裏を掠めるが、だが、冷ややかにオッドアイで見返されるとそれだけで泣き喚きたくなった。
「……やだあ。やだっ。やだあああっっ」
 他に言葉がでてこなくて繰り返して、壁に後退る。
「クフフ。心配しなくても、これを君の仲間に配るような粗野なマネはしません。君がそういう態度を取るんならね」
「!!」
 意味もなくシーツ上で藻掻いていた手足が凍りついて、綱吉が口角を噛んだ。
 骸のえげつない想像力は骨身に染みて理解していた。
 生きるも死ぬも骸次第、彼に自分の全権を握られたのだと遅れて理解する。
 綱吉の見開かれた瞳の奥から、骸は葛藤を見抜いたらしかった。
 デジタルカメラを制服の内ポケットに押しこんで、さも汚いといった仕草で手袋を捨てる。ぺいっと、綱吉の胸に当たった。
「ひっ……」それが濡れそぼっているとい事実だけで、眩暈がした。
「君が汚したんですから洗濯しといてくださいね? 今度は、受け取りにきますから」
「…………」痛みとショックが濃厚にブレンドされた悪夢の残り香が、アンモニア臭となって綱吉の胸を切り開こうとする。
 ハイパーモードで気勢を張っていなければ綱吉は脆かった。おまけに仲間からの援助が断たれてしまえば――こんなこと誰にも相談できない――もしかしたら、平凡な男子よりも能力が劣るのだ。
 かつてのあだ名が、ダメツナの四文字が、脳裏に蘇ってくる。すると牙城を崩された虎の赤子と化した。
「ひっ……。うえっ……。ヒぅっ、うァ。ヒッ、ひッ」
 喉が嘔吐いてくると、抗えずに鼻を啜らせて低く泣きじゃくる。
 微かに開いている唇は、最後の矜持を死守しようとした。怯えながら虚勢を叫く。
「に、にどと、くるなぁっ……」
「……くふ」きみはホントに仕方がないですねというニュアンスに溢れた嘆息は、彼が欲情していることを綱吉にまで薄っすら予感させるほど色っぽいものだった。
「こんな面白い逸材を放置してたら、僕までバカ扱いされるじゃありませんか」
 濡れた手が綱吉の頬に触れた。
 冷たさとアンモニア臭とで眉間を顰めて彼方に視線をそらした。それも構わないで骸は綱吉のこめかみに口付けを贈った。ありべでるち……。懐かしい響きだが、耳を甘噛みしながら囁かれても綱吉は悪寒しか覚えなかった。






10.2.10

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