灯り、消失する。


  思いがけない幸運に恵まれた。
 それはよくわかったがだが五分もすると六道骸は青褪めていた。
 これは幸運ではなくて不幸だ。
 足元ではスーツ姿の沢田綱吉が頭から血を流しつつ失神している。
 唇がうすく開いていて前歯がまみえる。呼吸のために胸が上下する様子も見られず、死にかけている。確か今年の春に高校生になっただろうかと骸は思い返してみる。
 ボンゴレ十代目を殺すことも、契約を結ぶことも、何もかもがたやすくできるこの状況。
 待ち望んでいた瞬間――。
 この数年、ずっと望んできた場面のはず。
 それが無造作に野晒しになって転がっている。
 だんだんとパニックに陥ってくる自分の頭脳を自覚して骸は息を殺した。
(……流れ弾に当たった? 転んだ……?)
 近くで日本マフィア――ヤクザ――が抗争をやっていることは知っている。雲雀恭弥が一枚噛んでいることも。
 その雲雀を心配して、この辺りをうろちょろしていたのだろうか?
 いずれにしても、沢田綱吉は頭部を損傷して意識を失っていた。
 ヴィンディチェの水牢から逃げてから、一年が過ぎた。
 骸は後ろの髪だけを伸ばして肩にかけるようになった。背も伸びた。
 だが沢田綱吉はほとんど中学生のときから変化がなく見えた。たまに並盛町に覗きにいっては、その変化の無さに逆に感心したものだ。――霧のリングはもう放棄してしまった。ゴミ集積所に投げておいたら、何がどうなったか、しばらくすると沢田綱吉が手にしていて彼はそれを髑髏に渡した。
 それはそれで、構わないので放っておいているが――。
「……………………」
 動いている彼を思いだすことで、暗に現実から逃避しているとは骸も気がついている。
 ――どうする?
 本気で迷っていること自体が、骸に衝撃を与えた。
(ころす……? いや……、まだ早い。契約するのか? この少年の体を用いて世界大戦を起こす、それは僕の悲嘆。沢田綱吉に拘る理由はないが、負けた以上は、この子の体でなければ……そう思って追ってきていたはず。契約すればいいのか? ……契約……? だが、まだ……まだ早すぎる。まだ――。まだ見ていたい)
 ストンと心に落ちてきた言葉に、骸は自分で傷ついて目を見開かせる。
 疾風が、骸が着込んだ漆黒のジャケットのすそをはためかせる。春の終わりにふさわしく薄手の風通しがよいもの。
 しかし体に絡みつく風をさわやかとは思えず、妙に焦った。耳を澄まして誰かが来ないものかと危ぶむ。
(まだ見ていたい)
 虫酸が走るし、認めたくもなかったが、だが他に何と思えばいいのだろう?
(殺したら……契約をしても……この子どもの最後とは違う。この子は、まだ、絶望していない。この世界にも、自分の境遇にも)
 ……数分の葛藤の後に、骸はとろとろと膝を折って少年の腕に触れた。
 持ちあげてみれば、思っていたよりもずっと軽い体だった。綱吉は一声もあげず、ただ、骸の肩に担がれたときには後頭部の髪からポタポタと鮮血を垂らしていた。

 

ACT.2

 草原にいるとする。
 葉っぱの擦れあう音がする。鈴虫が、鳴る。葉とは違う異音。だが、耳がその音色を聞きつける何よりの理由は、草原にいる自分が、虫のたてる涼しい調べを聞きたく願っているからだろう。
「……だれ……?」
 彼が、ぽつりとうめいた言葉に、骸はギクリとして盆を持つ手を強張らせた。
 黒曜町の外れにある廃墟のひとつ。
 廃墟といっても――ここを拠点と決めたときに、骸が幻術と策謀を用いて家主を追い出しただけなので、家具は揃っているし、単なる屋敷に棲んでいるのと同じだ。
 大きめのベッドにおさまり、天井へと顔を向けながら、綱吉は困惑気味に身動ぎした。
 目覚めたときのために――どろどろにした粥を用意したことを、骸は後悔していた。食べ物の匂いにつられて起きるとは。
 骸の焦りをよそに、綱吉は、質問を繰り返す。
「誰かいるんだよな……?」
 包帯が巻かれた頭を横に倒す。
 綱吉の目元には、黒いアイマスクがかけられていた。
 ここに連れてきたとき、骸が、手当てよりも先に綱吉につけさせたものだった。包帯の下に巻いているし、クリップを使って外せないようにしてある。
「…………」
 息を呑みこんで、少し迷った果てに骸はイスをベッドの傍まで引いた。
 手には水差しと粥が載った盆。
 上体を起こされ、水の入ったコップを握らされ、綱吉は本当に不安そうに尋ねた。
「……誰だ?」
 誰かが、自分を看病するつもりらしいとは、綱吉にもわかるらしい。
「あの……? ……オレが誰か、わかってて助けてくれて……るんですよね?」
 骸はひたすらに黙る。
 綱吉には白いパジャマを着せてある。骸は真っ黒い上下の姿でいたので、自分とはなんて対照的だろうかと、まったく関係ないことを考えた。
 このコップの中身を飲んでいいものか、綱吉が躊躇う時間は長かった。
 何を尋ねられても骸は黙った。
 やがて、喉の渇きに耐えかねて綱吉はおずおずとしてコップに口をつける。骸は溜飲を下げて、イスを引き摺ってベッドに近寄った。
 ギッ。その音に、綱吉がビクッとする。
「……誰なんですか?」
 疑問には陶器の触合う音が返る。
 骸は、まじまじとした目つきで宿敵であるはずの沢田綱吉の容貌を眺めた。
 幼い顔つきだ。まだ中学生といわれても信じるだろう。
 彼の口元に、陶器製のスプーンを運んでやる。
 鼻で匂いを嗅いで、どんなものかはわかったようだったが、綱吉はゴクッと喉を鳴らしただけだった。
「…………」
(自白剤でも無意味にいれてやりたくなりますね)
 今度はかなりの長時間を耐えたので、骸はさすがにイライラときてスプーンを下げた。食べないなら、それでもいいかと思えた。
 イスを立ち、盆を手に部屋をでようとすると、気配を察知したのか綱吉が「待って」と心細そうに呼びかけてくる。
「誰なのかいいたくないなら、それで構いません。あの……せめて、仲間に……連絡を取らせてくれませんか……」
「……」
 骸が、首を左右にふる。
 アイマスクをされている綱吉には見えようもないが。
(頭部の裂傷が酷い。しばらく安静にするべきですね。君の取扱いもまだ決めたわけではない)
 骸にすれば、綱吉は人質のようなものだ。脅迫相手と人質が同一人物とは、なんともおかしな話だが、この際は仕方がないと既に自分を納得させてある。
 ギギ……。蝶番が閉じていく音色に、綱吉が慌てた。
「あのっ。おれ……、目が悪いんですか?」
「……――――」
 傷は頭だけで、目はなんともないのだが、だが、今の状況では訂正する方法がないので骸はオッドアイをしならせただけで扉を閉めた。


ACT.3

「あれ。子猫ちゃん、喰わなかったんれすか」
「……警戒されましたね」
 手にした盆のたまご粥を一瞥して、骸は試しにと思って犬にそれを向ける。
「食べますか? いらないなら捨てますが」
「んえー。骸さんが作ったもんれしょー? 毒でもいれてるんら……」
「千種、食べますか?」
 ここにはいないのだが、これみよがしに下僕の一人の名前を呼んで廊下を歩く。すると犬が後を追ってくる。
「食べるびょん! 骸さんっ、食べる!!」
 口ではなんだかんだと言いつつも、犬は骸を心の底から慕っていた。
「にしても変わった猫れすね。人間が食べるよなオコメくーんれすか」
「ま、種別は変わってますね」
 陶器皿の熱さをものともせずに、犬が、粥をがっついた。その時になって骸は一抹の寂しさを覚える。他人のために何かを作ってやるなんて、そんな経験は骸にはほとんどなかった。
 と、同時に、長年のクセで鼻をひくひくさせている犬の姿に、あることを思いつく。

 目隠しのせいで時間感覚が狂っているようで、沢田綱吉は、深夜の訪問をおかしくは思わない様子だった。
 ギッと蝶番をきしませて室内に入れば、彼は、布団の下から顔を出す。
「…………?」
(寝ていないのか。痛みはあるはずですが)
 体が自由に動かせないほどの痛手であるのは、間違いがない。綱吉がベッドを出た痕跡はなく、骸がイスにかけても、自力では上半身を起こせないようだった。
 腕を掴み、起きあがらせながら、骸はまた不安そうに体に力をいれている少年を観察する。
 粥をかるく掻き混ぜて、数時間前と同じように口元に持っていった。
 ひくり。目を塞がれているため、綱吉は嗅覚に意識を集中させている。匂いを嗅いですぐに綱吉は苦しげに眉根を寄せた。
 ……唇を震わせた末に、我慢しきれなくなったようで、ぱくりとする。
(人間とは不様ですね)
 その様子に、わずかに笑ってしまいながら、骸は二口目をスプーンにすくう。綱吉はそれも食べた。
 今度の粥は、先程のたまご粥に、梅干しを二粒ほど混ぜた。千種に買ってこさせたもので、大粒で、酸っぱそうないい匂いがする。
 鼻につんとくる香りには、空になっている胃袋が引っぱられるのだろう。
 綱吉は粥をすべてたいらげた。
 何も、喋らなかった。
 ひとまずは食欲に負けたが、自分がどうなるかを不安に思っているらしい。顔色を青くして黙りこむようになった。
 それを腕組みしてしばらく眺めた末に、骸は、眠くなってきて部屋を退出した。


ACT.4

 次の日の夜には、沢田綱吉はいくらか状況を受け入れた様子だった。
「……ありがとうございます」
 粥を最後まで食べさせてから、水のコップを渡す。綱吉は怖じ気づきながらも喋りだした。
「あの。助けてくれてるんですよね?」
「……………………」
 僕の顔を見たらなんていうのやら。
 骸は皮肉げに眉を寄せた。喜ばれても恐れられても――、どんな反応だろうと認めたくはない。
「今って……。何日なんですか?」
 食事や水を口にしても自分に変調がないせいだろう、綱吉は、一言も喋らない相手を味方めいた存在として認識したようだ。
「ここはどこなんですか?」
 骸は、ひたすらに喋らず、座っているだけだった。
 ボンゴレ十代目というのは、見れば見るだけ、ひよわそうな人間に感じられた。彼がまとっている空気は、優しい。
(君の棺桶になるかもしれないし、その甘さ故に僕に乗っ取られるかもしれない場所ですよ)
 胸中だけで応えを渡し、骸は、組んだ腕の右腕を強く握った。この少年の優しさを思い返すと動揺する――そんな己が、許せない。
「あの……、だ、大丈夫です。寒くはありませんから」
 何かしたくなって、とりあえずは彼のベッドに毛布を増やすと、綱吉は遠慮深そうな声で戸惑った。





ACT.5

 千種や犬といった仲間には、猫がいるとだけいって宿敵を匿ってから三日ほどが経った。
  ぽつぽつと質問をしていた綱吉は、ふいに、それまでとは異なる質問をした。頭の包帯を変えようと、触れたところで、
「……いつも、同じ人が、ここにきているんですよね?」
 綱吉は顔があるだろう位置を見上げる。
「…………」
(超直感)
 バレた?
 どうする――?
 瞬間的に競りあがった危機感に体が竦んだ。が、綱吉は、驚きもせずに、頬に薄っすらした照れ笑いを浮かべている。
「どうして正体を隠そうとしてるんですか? やっぱり、オレの知ってる人なんですよね……。誰だ……?」
 鼻をくんくんとさせて顔を近づけてくるのには、心臓が上に引き攣る。
 もう少しで胸に顔が埋まるところで、骸は額を押して綱吉の体を遠ざけた。
 ちょっと拗ねた声で綱吉が言った。
「わかんないですよ」
 鼓動が早くなっているのを自覚すると頬に熱が集まってきて、骸は舌打ちをこぼしたい気分になった。
(…………マフィアのくせに)
 乱暴に髪の毛を引っぱると綱吉は大きい声をあげる。
 骸は、手元に連れてきた頭の包帯を解きにかかる。何をされるかを悟って、綱吉は安心した口調で尋ねた。
「目隠しはまだ取っちゃダメなんですか?」
(ずっとつけてなさい)
 外した包帯には少量の血液が付着している。
 髪に手をいれ、傷口を指先でさぐってみると少年が苦しげに息をつめた。
 その幼い横顔に視線を注ぎ、骸は、だんだんと気を変えた。
 指の間で梳くようにして触れてみるとボンゴレ十代目のやわらかい髪を存分に感じることはできた。血で凝固した箇所はもう洗い流してあるので、サラッとした触り心地だ。
 綱吉が「?」といった感じで顔をあげた。少し怯えた声で言う。
「何……?」
 匿ってから、少しづつではあるが、沢田綱吉の態度は友人達に接するときのそれに近づいてきている。
 しばらく考えながら、綱吉を眺めた。
 怪我が治りかけている。回復してしまえば彼は自分で動けるようになる。一ヶ月もしないだろう。
 きゅっ。
 骸の手は、アイマスクをさらにキツく締めにかかった。悔しくは思うが、これは事実だとも思う。
(このまま、ここにいれば、君は永遠に絶望することはない)
 アイマスクを外せないように、後ろの留め具の上から包帯を巻いていった。


ACT.6

 さらに二日が経つ。
 食後のトイレに連れて行って、ベッドに戻した際に、綱吉はこんなことを尋ねた。
「この部屋に窓はないんですか?」
「…………」
 外に行きたいと思えるほど、回復したようだ――。
 微かな痛みを胸に感じた。
 だが、それは認めずに、骸は綱吉に手を貸した。白いシャツに黒のコーデュロイパンツという格好で、自分はすぐにでも外にでられるからだ。綱吉は、相変わらずのパジャマ姿で、ハタから見れば不審だろうが、そもそも洋館は町外れで人目からは離れた地理にあるのだ。
(千種達も出ている。少しだけなら)
 無言で手首を引かれている綱吉は、今までにない行動にギョッとしたらしかった。
「あ、あのっ……?」
 ギィ、と、蝶番を鳴らして部屋をでて、骸はバルコニーに続く廊下を歩いていった。

 古い建物だが、造りはしっかりしている。
 白いペンキで塗られた木板は、板を軋ませることもなく少年二人を受け止めた。バルコニーの手摺りに綱吉の手を置いて、骸は、フゥと鼻腔からため息をつく。
 綱吉は、嬉しそうに歯を覗かせた。
「あ……。花が咲いてるんですね」
「……………………」
 館の正面には雑木林があって、住民を俗世から切り離す。
 自分でも手摺りの木板に手をついて、骸は己の紅瞳を綱吉に向けた。彼の横顔は、安らぎに寛ぐ。
(……笑っている……)
 アイマスクに秘されている両目が、優しく微笑んでいるのをつい想像してしまう。
 骸のイメージしている沢田綱吉という人間は、そういう、優しい少年だった。戦いよりも戦いによって散らされる存在を思いやるタイプ――。
(マフィアには向かない男……)
 そんなことを思っていると、自然と、片腕があがった。
 綱吉の肩を掴みかけたが、だが、途中で不自然だと気付いて、仕方なしに骸は自分の髪に付着した木の葉を手で取る。
 吹いた風が綱吉のパジャマをハタハタとさせていた。その体をなぜる葉のかけらに、鮮やかな絵の具の赤が混じったので、骸は両目を瞠らせた。
 雑木林の方で咲いている何かの花――。
 その、紅い花弁が、彼の髪を梳いて溶けるように馴染み、後ろに抜けていく。
 一瞬の光景が、強烈に骸の目の奥に焼き付いた。
 美と思えるものを目撃したときの気持ちなのに、相反した感情が走る。
(今なら殺せる。乗っ取ることもなんてたやすい。どうして僕は……、二年前の僕ならできたはずなのに)
 この頃は、骸もにわかに自覚していた。
 世界大戦などと――甘美と退廃に満ちた悲嘆は、永遠に、叶わない。
 大人になれば子どもの頃の夢を忘れるのと同じようなものだった。それがわかってしまうのが骸には悲しかった。
(だが僕はやらなければならない……。この世界が在る限り、望みは変わらない。六道輪廻に囚われた僕が死ぬには世界ごと消滅する以外には無し)
 眼の移植を受けたときに悟った宿命が、骸の背中を押そうとする。
 傍らで、綱吉が無邪気に笑い出した。
「……オレ、わかる気がします。あなたが誰なのか」
「……――」
 骸は、息を止めた。
 ギクッとして硬直する。
 動けない。綱吉は、やはり、骸には鮮やかに見える挙動でもって向き直った。
「言っていいんですか?」
「…………っ」
(黙らせるには――、記憶を奪っ……)
 天界道のマインドコントロールを期待して綱吉の額に手を掲げる、が、アイマスクに阻まれている彼の両眼にハッとする。術がかけられない。
「――――」
 完全に言葉を失い、意識に空白が芽生えたスキに、綱吉が笑いかけた。
「ヒバリさんでしょう? よかった。言いたかったんです。ヒバリさん、ヤクザの抗争の手助けなんて似合いませんよ。学校に戻ってきましょうよ!」
 骸のオッドアイが大きくしばたく。
(なっ……)
 動揺は、あまりにもあからさまだったので綱吉にも空気を通して伝わった。
 顔色をくもらせて、彼は、間違いに気付く。
「え……? あ、ご、ごめんなさい。――あ――、じゃあロンシャンとか? オレを驚かせたかったとか」
「…………」
 気付かれてはいない――安堵するべき。
 それはわかっていたが、骸は苛立ちを抑えきれない声で呟いた。
「誰ですか、それ!」
「?!!」
 綱吉が、一瞬で顔色を変えた。

 

ACT.7

「なぁっ……、ろ、六道骸っ?!」
「ほう。僕の声はわかりますか」
 手を伸ばし、アイマスクをもぎ取ろうとすると綱吉が抵抗した。
「痛ッ!!」
「残念でしたね。君の超直感もまったくアテにならないのではありませんか?!」
「つっ……?! な、なんでお前が」
 引っ掻かれた頬を手で抑え、綱吉が肩を強張らせる。
 彼が後退ったため、互いの体の間を風が大きく通っていった。骸の髪も叩くように散り揺らして、それが苛立ちをますます大きくさせた。
「フン。期待に応えて耳のひとつでも削ぎ落としてあげたくなる反応じゃありませんか。沢田綱吉。きなさい、外してあげます。もう意味がありませんから」
「意味……? お前が、オレを助けたのか」
 綱吉は、震える手で自らの両目を覆っていたアイマスクに触れた。
 自力で、力任せに、剥ぎとる。
 それを見て骸も気がついた。取れるのがわかっていながら取らなかった――、それが沢田綱吉という人間らしい。
(なんて……お人好しだ)
 眉を八の字にして皮肉げに笑いながら、しかし、肝心の皮肉る言葉がでてこない。
「…………」
 黙っている骸に、綱吉は、解せないと言った眼差しを注いだ。
 薄雲に太陽は隠れている。
 それでも、久々に眼に受ける光はまぶしくて堪らないらしく、綱吉は顔を顰めた。そして沈黙が長引くと猛烈に不安になるらしい。不安は、病み上がりの体には、堪える様子だった。
 引き千切ったアイマスクを握り、ほつれた頭の包帯の三十センチほどをはためかせながら、綱吉は困惑を吼える。
「なんでだ?」
「…………」
「目隠しを取っても黙るのか? ……骸さん、久しぶりに会うのに。なんでお前が……。オレを助けたんだよな……?」
(もういやだ)
 彼が倒れているのを発見してから、ずっと堪えていたと骸には理解できた。今なら。
「なぜ、君は、僕を憐れむんですか?」
「え?」
「同情されると虫酸が走るんです。わからないんですか? 君が――ボンゴレ十代目であるくせに光を失わない君が僕を絶望させているんだ!!」
「なっ……、なにを、いきなり」
 両眼を震わせて、搾りだすような声をあげた骸に綱吉は恐怖がにじんだ声を帰す。
 沢田綱吉が、自分に対して特別な恐怖を持っているとは骸も勘付いている。
 それは――、
(僕が仇をなすとわかっているから――)
 妄想か真実か、どちらかわからないが、それで例え彼に狂人とののしられても構わないと強く思えた。
 骸が歩み寄れば、綱吉は、あたりに視線をやった。
「逃げるんですか」
「骸さん、待ってよ。何か……勘違いをしてないか? オレは何もしてないよ」
「ええ。君は自分が正しいと信じる道をいっている。それが僕にはいやなんです」
「……待っ……、て、まだオレ、本調子じゃない」
 免罪符を求めるように綱吉は首を左右にふった。
 顔色は真っ青で、窮地を自覚しきっている態度。
 骸は、にっとして口角を吊り上げた。
「戦えないと? 好都合じゃありませんか」
「…………っ。骸?」
 バルコニーの四隅の一角に追いつめられ、動けなくなった綱吉の頬に手がかかる。慈しみすらこめた手つきで、顔のラインをなでながら、骸が綱吉の双眼に己のオッドアイを近づけた。
「ムカつくんですよ。僕が嫌いな連中は君を崇めて新時代のボスだともてはやす。彼らの気持ちもすこしはわかる……君はまだ絶望していないんですから」
 光を失った人間には、君の存在はまるで一条の灯りが差したよう感じられる。
 骸が説く言葉は、綱吉には意味がわからない様子だった。
「僕にどうされると思いますか?」
 彼の戦慄に気をよくして、骸はいたぶるためのからかいを口にする。
「殺される? 契約される? 僕は二年前から君をずっと標的にしているんですよ。長いでしょう。熱く慕われてる気分はどんなものなんですか?」
「…………触るな」
 頬の皮膚を指でくすぐられて、綱吉は嫌悪に眉を寄せつつもようやくそう言った。
 だが声は震えているし骸を刺激しないように注意を払っているのが筒抜けだった。気が昂ぶってきて骸は笑みを深める。
「冷たいんですね。相手が僕だからですか? 僕に触られるのが気に入りませんか。誰かわからないでいた間は受け入れたのに?」
「そんな……、お前だなんて、思わなかった。助けてくれたのには感謝する」
「なにを、ふつうに、会話しようとしてるんですか?」
 冷静なフリをしようとするのが骸の気に障る。
「ぐっ――」
 綱吉のあごを上向かせながら、骸は彼の目の下を撫でた。昂ぶる――頭が。けれど呼吸はひどく冷たくなっていく。
「散々、どうするかを考えましたよ。まだわかっていない――こんな僕でも、さすがに悲しくなってくるんですよ」
「や、めろっ。はなせよ!」
「くは、ぜんぜん力が入ってませんよ。君に手をだすなら今ですね」
「……ヤだッ!」
 耳に息を吹き込みながら囁くのが、大部、効果的だったようで綱吉が甲高い悲鳴をあげた。
 骸の胸についた両手をふりあげて、殴りかかろうとする。その手首を骸がねじる。綱吉の両眼に食い込むオッドアイが、危うげな輝きに満ちた。
「感情に生きるとしましょう。僕は、今の君よりもベッドで大人しくしてくれてる君の方が好きですよ。綱吉。僕の顔を見なさい――」
「痛いっ! イタッ、いたい! はなせ! はなせよ!」
「――それが君の世界の最後だ」
「?」
 蒼白になった面を綱吉が持ちあげる。
 その瞳の数センチ先のところで、骸は、暗闇を称えた薄笑みを披露した。五本の指先が眼を収めた道窟に潜る。



ACT.8

 指先が潜りこんでしまえば呆気なく彼の両眼はその機能を失った。
 肉食の獣に、草食獣がやられる場面を想像した。
 ――これから死のうという場面に、彼らは断末魔もあげない。本当に恐ろしい瞬間というのは声をあげられないものだ。
 綱吉も草食獣と同じ様子だった。
 骸の右手にはにぶい感触があった。
 人差し指と中指、その指の腹に触れているものを跳ね上げて、引き抜く。沢田綱吉が生きた宝石として育てていたものは楽に骸の手中に収まる。
 引き攣った絶息をもらして、沢田綱吉はバルコニーの手摺りにもたれかかり、――ここでようやく鳴声をあげる。
「……っぁ……!!!!」
「く……、くはっ、ははははははっ。――涙はだせませんか――?!」
 骸は右手に収まっている二つのものを転がす。思いあまって口付けた。
「コロコロしていて可愛いじゃありませんか! おや、顔を背けるんじゃありませんよ。その死人のような顔を僕に見せなさい」
「…………ぁっっっぁあっっっ?!」
 歯を剥き出しにして食いしばり、綱吉は思考もできずに激痛に耐えているようだ。
 その前髪を左手で掴み、骸は、彼のかわいそうな姿に心から同情した。
 ――同時にひどく満足感をえて武者震いを起こす。
「くっ、くく、きれいな化粧みたいですよ」
「……アァアアアアあアッッッ」
 引きつけを起こしかけている細い体を見回し、骸は、右手に持っている少年の眼球を握りつぶした。
 その血と汚物によごれた右手を、綱吉の頬になすりつけてやる。
「これで完璧ですね……ッ。ほら、聞こえてますか? わかってますか? 君はもう永遠に光を失った!」
 突如として、綱吉が獣じみた叫び声をあげた。
 全身でもんどりを打って自分の両眼の上を――ただ暗くなっているだけのそこを、手で抑えようとする。
 目の前で苦しみ悶えている少年の胸中を思って骸は最高の気分になっていた。
「僕が幻覚で補ってあげましょう――」
「ひぎゃあああっ?!」
 身を襲う激痛と暗闇とが、プツッと途絶えて、綱吉は両目を見開かせた。
 両目――美しいブラウンを光らせた眼球。
 慟哭によって、すぐさま、両目のはじに光るものが滲みだした。
「え……? あっ。あぁ……? はひっ?!」
 掴まれた前髪を殴るように前後されて、何度か、体がバルコニーで叩かれる。
 ぬるく濡れている頬を手の甲で拭い、綱吉はわけがわからないという顔で――これまでに見せたことのないほどの表情で狼狽えていた。
 小さく竦み上がった瞳孔が、恐怖の感情によってくるくる色合いを変えていく。
「い、痛かっ……、ぐっ。え……? っぐ! 痛っ、め、が、あ、うっ!」
「君は、今日から僕のものだ!」
「うあ!」
 右頬を殴られた綱吉が、肌につけていた血まみれのものを木板に飛び散らせる。
「っ?!」
 綱吉が愕然とした。
 足元に点々として――ゼリー状のものが真っ赤に染まっていて、それが広がる。自分の首から腹にかけて垂れている鮮血の痕も見つめた。
「…………っっっ?!!」
「わかりますね?」
 骸は、ニヤッとして、自分の靴で下に落ちている瞳の硝子体を踏みつぶした。
 赤と蒼を宿した神秘の双眼がヴィンと鳴る。
「ひっ?!」
 手で眼を押さえて、綱吉がパニックに陥って悲鳴をあげた。
 両手で強く眼を押さえ、頭を左右にふる。
「やめっ……、やめろ! やめろおお!」
「クフッ。まるで電気のスイッチのオンとオフを繰り返すみたいでしょう? どういうことになったのかよくわかりますね?」
「ひ、ひぃっ。ヒッ……!!」
 パチパチと視界を暗転させられる気分を考えてみて骸は舌なめずりをしたくなった。
「――もっと、わかりやすくしましょうか」
「ひッ! ヒィイイイイッッ!」
 抑えた手の下で、ふつんっとして眼球が一瞬だけ消え去った。
 綱吉は骸が哀れに感じるくらいの絶叫をあげて涙を見せた。震えがどうしようもないレベルになり、その場に、しゃがみこんでしまう。
「……くふふ」
「やっ、やあっ、アッ……。うわっ……うわあああ……?!」
 喉でしゃくりあげるのを見下ろし、骸は、勝利を予感して酔い痴れるような気分になった。
 腕を組む。もう有幻覚での干渉は最小限に抑えている。つまり、彼の両眼は目としての通常の機能を果たすのみになっているはずだ。
「顔をあげなさい」
 軽く膝でこづくと、綱吉は、血まみれの木板に手をつきながらも、顔をあげた。
「な、んの、つもり……」
「ふ。ずいぶんと酷い声ですね。君のそんな声、初めて聞きましたよ」
「なんのつもりだァッ!」
 幼児が駄々を捏ねるようなヒステリックな声でわめいて、綱吉は怯えていた。
 骸は脱力している少年の襟に手をかけた。
 ボタンをはじき飛ばして、乱暴に服を破いていく。
「奴隷に服はいりませんね」
「…………どれ……?」
 ドレイと言われたのが信じられないと、綱吉が喉を震わせる。
 骸からの仕打ちに、魂から震えあがっているのか、綱吉はなんどか同じ言葉を呟いた。『いや』と、力無く言って、自分の両目を強く手で抑えている。
「脱ぎなさい。また理解らせて欲しいんですか――?」
「ヤダァッ!!」
 涙をこぼして綱吉が喉をえづかせる。
 視界を失わせる感覚は、相当、彼の精神に痛手を残したらしい。
 骸は、満足して、裸体を晒してうずくまっている少年の前に膝をついた。彼のあごを掴み、ルールを教える。
「今世紀に、君の目をリアルに二十四時間維持しつづけられるほどの幻術師は僕だけです。この意味がわかるんでしょうね」
「……そ……な……」
「ウソだと? 後悔しますよ! 明日から僕と同レベルかそれ以上の輩は全員殺しにまわってきてあげますよ! そうすれば僕が世界一でしょう?!」
「――――」
 唖然として、綱吉はその眼窟に収まっている幻影の瞳を見開かせる。
 声を枯らして、裸の体を腕で抱きながらも尋ねた。
「なんでこんなこと……たすけてくれたんじゃなかったのか……」
「お人好しですね。そんなわけがないでしょう」
「……いや、やさしかった」
 超直感で喋っているのかと骸が危ぶむほどの態度だったが。だが、無造作に腹を蹴れば、綱吉は喋る気力をすぐになくした。
「そんなばかげたこと、まだ言えるんですか」
「…………ぐっ!」
 ぜひぜひっと憐れな呼吸音を唇から漏らしつつ、綱吉は、啼いた顔を骸に向ける。
「おれに……どうしろっていうんだ……?」
「…………」
 それを問われると、骸は少し困った。
 ただ、なぜ、彼を脱がせたのかを考えた。しばらくしてから慎重に告げた。
「そうですね……。ひとまず、僕のチンポでも舐めて貰いましょうかね?」
「……――――、で……、できないよ」
「なぜですか」
 短い言葉には真に迫った響き。
 綱吉は――、目がぱっちりしていて、見ようによっては少女めいた色香が感じられる。間近で見下ろしながら骸は初めてそれを認めた。
 血に汚れた頬を撫で、ゆっくりと、少年の目の下を指の腹でなぞる。
「できないんですか?」
 それならば――。
 暗に秘めたメッセージはダイレクトに伝わったようだ。綱吉は腕の肘をがくがくと揺らした。
「…………な、なめる」
「犬がエサにむしゃぶりつくようにやるんですよ? みっともなく音をたててすすれ。僕を興奮させてみなさい」
「……ヒッ……、い……、……そおれはっ……自信、ない……」
 えぐ、と、喉をえづかせながら、綱吉が声をひねり出す。
(あぁ――)
 骸は妙に深く納得していた。
(一目見たときから、この子に惚れていた。僕は)
 そう思えば理由のつくことはいくらでもあった。
 例えば、殺せないとか、契約ができないとか。
 バルコニーの柵に体を押付け、最大限に骸から遠ざかるようにしながら、綱吉は、声もなく、えぐえぐと不自由に哀しんでいた。
 彼の左右のこめかみに両手を這わせた。
 骸は、まだ紅く汚れてない綱吉の額へとキスをする。
「チンポのタマまできれいに舐めるんですよ……」
「うっ……」
 綱吉はビクッとして震えたが、結局はぐずるような吐息を漏らしただけで大きな悲鳴はあげなかった。
 涙の膜でいくえにも覆われた眼球を覗き込む。
 きれいだった。
(この再現度! 完璧だ。僕はこんなにも彼の造形を頭に焼付けていたんだ)
 笑みが浮かぶのを骸は抑えることができない。
「……君の脳以外ならば、僕は、どこの部位だって再生することが可能みたいだ……。わかりますね、この意味が」
 恐怖に引き攣っている彼の唇に、そっと、恋人同士の者がするキスを押付けた。

 

おわり

 


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09.5.20