3月14日→4月1日





「あぁ、おいしい……」
 とろけた声を奏でて、自分のほっぺたを手で抑えたのはクローム髑髏だった。甘美な陶酔に浸りきった声で悦ぶ。
「骸さまが漬かってた水槽のワカメで作ったわかめご飯……、素敵」
「おい、犬」
「何もいいたくねーびょん!」
 髑髏の向かいで、並んでイスにかけた千種と犬が言いあう。さすがに少女の偏愛ぶりについていけなくなって半眼になって冷や汗を額に浮かべている。
「料理したいとかめずらしーことを言うと思えばね」
「大人しく麦チョコだけ喰ってりゃいーびょん」
「ヒ、ト、んちの台所でっ!!」
 と、テーブルの真横に少年が立った。沢田綱吉、制服姿でちゃぶ台返しに挑むかのようなポーズで絶叫する。
「――っあやしげなものを食べながら談笑するなぁああああ!!」
 彼らの食べてるものをひっくり返してやりたいのが本音だが、だが、ツッコミだけに抑える。
 口に出してのツッコミというのは、不良連中に対する綱吉の対応としては大躍進の快挙であるが、三人組は動揺しなかった。千種が、綱吉の方をむいてワカメご飯をすくったスプーンをパクリと口に咥えながら簡素な説明をした。
「俺らンとこ、炊飯ジャー、ないから」
「骸さんがここに行って喰えって」
「沢田家の台所はキャンプ場の共同台所なのかッ?!」
 手をわななかせる――帰宅したら、いきなり三人がご飯を食べていたのだから――驚きの余韻によって綱吉は肩を震わせる。
 とある、非常に恐ろしい想像も脳裏をえぐるのだった。
(しかも、わざわざこんな日に!)
 本日は三月十三日。いわゆるホワイトデーとなる土曜日を翌日に控えた週末だ。
 遠回しにホワイトデーを忘れるなと六道骸に釘を刺されたような気がする。
『一言だけ言っておきますよ。沢田綱吉。三月十四日に。舞い戻ってきますから』
『……へっ?』
『輪廻の底から!』
『あっ……。おい、骸!』
 と、こうした会話の果てに骸は配下の少年少女をつれて行方をくらませた。霧の契約を反故にする行為だとファミリーの上層部が騒いでいると綱吉は聞いている。
 だが、上の者の考えることなんて、ボスとしての自覚がまだまだ低い綱吉にはあまり興味がなかった。
(う、うーん)
 チラリッとお菓子や保存食を詰めるための戸棚を見やる。
 そこで髑髏がニッコリとしてボスを見上げた。
「ボス、食べる?」
「……え」
 綱吉はゾクッとして悪寒を覚えた。
「え、遠慮しておく。そのワカメってさ、あの、ワカメなんだよね?」
「うんっ」
「…………遠慮しておく」
 末恐ろしさに戦慄してて、後退る綱吉である。
「ウィンナー、もっと焼こうよ」
「もう一品欲しいびょ」
「っていうか、ヒトんちの冷蔵庫の中身で勝手に食事を作るなってば!」
 問題のワカメご飯の他にも、クローム髑髏が調理したらしい野菜の卵とじやらこんがり焼いたウインナーやらが食卓に並んでいた。ひたすらワカメご飯を食べながらも髑髏はまだ綱吉を見つめている。
「ボス、骸さまがきらい?」
「そ、そおゆう問題じゃないと思うよっ!!」
 それを叫ぶのが綱吉の精一杯だった。

***

 ――こうした事態があって、綱吉は避けがたいものとしてホワイトデーを受け入れた――、というわけでもないがともかくも、土曜日には戦地に赴く表情でもってとある廃墟を前に立っていた。
 黒いパンツに、英文字のロゴが入った長袖シャツ姿で極めてラフな軽装であるが、万一のためにポケットにはイクスグローブがある。片手には手提げ袋。
『一応、念のために聞いておくけど、今、どこに潜伏してるんだよ?』
 去り際の彼らに尋ねてみると、三人は顔を見合わせた。頷いたのは嬉しそうに笑ったクローム髑髏である。
『その情報は、ボスには教えてもいいって、骸さまが言ってた』
『そ、そうなんだ。へぇ……』
 背中に冷たいものを感じた綱吉である、が、その冷たさは今にもあった。
「鍵が開いてる」
 黒曜町の外れ、打ち捨てられた洋館の錠が開いていて、少し押しただけで錆び付いた蝶番がギギギと唸るのが聞こえた。
(招待客扱いってことかな? オレは)
 ご丁寧な演出を好みそうな骸の性格を考えてみて、呆れから目を細めつつも綱吉は洋館に足を踏み入れた。
 日は陰りはじめているがまだ高いところにある。
 ひび割れた窓や汚れた壁が、明るく照らされているため、外から見たほどのおどろおどろしさは無かった。ホッとした。小部屋の扉を開けては無人を確認し、廊下を進んでいく。
 その予感は、少し前から感じていたが確信をもったので綱吉は足を止めた。
 うう…………。
 どこからか、唸り声が聞こえる。
(なんだ? まさか……、骸が誰かに何かしているのか?)
 彼が雲雀恭弥やフゥ太を捕まえたりした過去を思い出して身構える。
 唸り声の発信源を特定すると、綱吉は恐る恐るとドアノブを掴んだ。ゆっくりと扉を開けていく。その部屋は、寝室のようだ。
 綱吉は目をまん丸にして名前を呼んだ。
「クローム。城島犬? 千種さん?」
「ううっ」
 三人の子どもが、ソファーやらベッドやらで横になって額に脂汗を浮かべていた。黒曜の制服姿で苦悶から盛んに寝返りを打っている。
「だ。大丈夫? どうしたんだよ」
 綱吉は、狼狽しながらも一番苦しそうにしている髑髏に駆け寄った。
「う、うーん」
 青褪めてぐったりとしている少女は、アメジストの瞳を薄く開かせて上を見る。綱吉に驚くということはなく、熱に浮かされた声で弱々しく呟いた。
「わ、ワカメが……、傷んでたみたい」
「…………。ほ、ほら〜〜っ!」
 別段、食に挑む彼女らを制止したワケでもなかったが綱吉は非難をあげずにはいられなかった。
 と、髑髏の紫瞳は綱吉のさらに上を向いているとすぐに気が付いた。体が冷水ですすがれたみたいな悪寒が背筋に走る。
「ヒッ?!」
「食の細いこの子が食べものに興味を示しただけで、まあいいかとは思ったんですけどね」
 同情心はなく、単に、自分の感想を述べるといった冷徹な響きを持ったセリフ。
 ばっとして振返り、慌てて、綱吉は髑髏が寝転がるベッド沿いに闖入者との距離を取っていく。六道骸はしらけた顔だ。黒曜中の制服を着崩して身につけている。
「ようこそ、沢田綱吉」
「骸。お前は平気なのか?」
「食べるワケがないでしょう、あんなもの。僕はヘンタイじゃありません」
 骸は、呆れを秘めた眼差しで仲間達を一瞥する。
 ウググっと不服げに呻いたのは床でのたうっている犬だった。
「むっくろさん、くいもんを粗末にするらってオレの頭踏んどいてそりゃーねーびょん……、ウグッ」
「犬までダウンするとは相当の毒素ですね。さ、僕の真心ですよ。犬、千種。髑髏」
 片足の靴で犬の頬を踏みつけつつも、骸は右手に持っていた錠剤を一同に見せる。
 水の入ったコップは、ベッドサイドに置いた。これを呑んだらすぐに寝なさい――、優しげな微笑みを称えた横顔があるのだが、綱吉は骸に踏まれている犬に意識を引っぱられて仕方なかった。
「ぎゃんぎゃん! 腹いてェーし骸さんが踏むびょん!」
「クフフ。安静にしろって言ってるのがわかりませんか? オトしますよ?」
(相変わらず、よくわからん信頼関係だなぁ)
 三人が薬を飲んだのを見届けると、骸は出入り口に向かいながら綱吉を誘った。
「君は僕に用があってここにきたんでしょう?」
「あ、ま、まあ。ウン」
 こわばった返事をしながらも、綱吉は骸について廃洋館の廊下に歩きだした。
 光がよく差し込んだ広間へと出る。
 そこを、骸は自分の寝室にしているらしい。
 隅に、無造作に、赤い生地でこしらえたソファーが置いてある。背の低い棚がいくつか奥にある。多少は生活臭がある方に歩いていく背中に、綱吉は、胃袋のあたりからよくないものを感じた。冷たい汗が出る。
「あの、骸。これ」
「?」
「チョコ……」
 ふり向いた骸が、特に、なんの表情も浮かべていなかったので綱吉は焦った。そんな顔しなくてもいいのにとかを思う。
「ホワイトデーだよ。だろ? 今日は」
 少々、青褪めながらではあったが綱吉はニヘラとした笑顔を浮かべる。
 この情況下、そしてこの日付、袋を提げた自分が骸を探している。目的など骸にもわかりきっている筈だ。
 骸は、もしかしたらムードもへったくれもないタイミングに苛立ったのかもしれない。不機嫌に眉をひそめて沈黙した末、あごを引いて頷く。
「…………どうも」
 紙袋ごと渡されたので、骸は、自分で白い包装紙につつまれた長方形の箱を取った。
「そんな高価なのじゃないけど。オレのこづかいじゃそれが限度で……ッ、ば、バレンタインデーはありがとな。これで貸し借りゼロってことでいいんだよな」
「本当にこのためだけにきたんですか?」
 箱を裏に返してメーカー名を見てから、骸は、まあ期待はしてないといった顔で納得している。
 綱吉はムッとして首を縦にする。
「そだけど、期待してるって言ったのは骸だろ。いいだろ……。それじゃ、」
 踵を返したところで、ガッとした勢いで肩を掴まれる。
 それなりに距離を取っていたつもりなので綱吉はいやな汗を浮かした。
 なんのつもりだと言った強気を装った表情で、ふり向く。手で肩を掴んでおきながら、六道骸の目は、まだホワイトデー包装がなされた小箱を見下ろしている。
「せっかくですから送ってあげますよ」
「いいよ、逃亡者だろ」
「僕の好意を無駄に?」
 有無を言わせぬ意志を感じて綱吉は口を紡ぐ。
 綱吉に視線を戻した骸は、困ったふうに眉を寄せている――照れているようにも見えたが、綱吉には信じられなかった。
 自然と、並んで玄関へと歩きだしながら綱吉は無言になる。骸は饒舌だった。
「君がまさか素直にココまでくるとは思いませんでしたよ。自分の立場、わかってるでしょう? ボンゴレ十代目。僕はもう君の味方じゃないでしょうに」
 綱吉は(機嫌がいいのか?)といった疑問を持つ。
 なんだか喉が渇いてきたので固唾を飲んだ。
「あのな〜、だからさ、お前が来いって言ったんじゃないか。危ないのはわかってるからグローブだって持ってきてる。警戒……、してないわけじゃないし」
「おや。信用されてませんね、僕は」
「当たり前だろ」
「クフフ」
 綱吉の返答にしごく満足といった態度で、骸は喉を震わせる。
 ホワイトデーのプレゼントを自分の肩の高さまで持ちあげた。
「一緒に食べますか?」
「ええ? ……いい、遠慮します」
「そうですか? 安いものだからって文句言ったりしませんよ、僕は」
(だから食べていけって言いたいのか?)
 不安と不審で表情をくもらせて、綱吉は先に見えてきた玄関扉を横目にした。
「いいよ。もう帰る」
 あそこの扉を出ればこのよくわからない課題も終わる。足がそちらに行きたがって早足になっていた。
 そもそも、綱吉は六道骸という存在が苦手なので二人きりという事態は落ち着かないのだった。
 先を行った綱吉を追うように骸も歩調を早くする。
 身長の差のため、足のリーチがちがうのですぐ後ろに追いつかれた。
「つれないんですね。わざわざ男からもらったチョコのお礼をしに隣町にきたヒトとは思えませんよ」
(うう、絡むなよなぁ)
 なんで並盛町に返してくれないんだろうと思いつつも、綱吉は頬を朱色に染めた。
 バレンタインデーにまつわる一連の勘違いやらそのための応酬やらが、恥ずかしいこととして意識できて言葉につまりそうになる。
「こっちに来たのは仕方ないだろ。だってお前、オレんとこに来ないじゃんかっ」
「というと?」
「り、輪廻の底から舞い戻る〜とか言っておいて自分のアジトで待ってるって一体……」
「ほう。じゃあ、僕が戻ってくるのを待ってたんですね」
 後ろから聞こえる声音が、急にトーンを落として調子を変じる。
「…………っ!」
 そう言われるのは、違うと強く思えて、綱吉は傍目にもハッキリとわかるほどに頬を赤くさせた。
 扉に向かって早歩きで向かいながら顔を俯かせる。
「なんでそうなるんだよっ」
「君、まんざらでもないんだ」
(ヒーッ、も、なんだこいつっ?!)
 バトルを通して見知った骸という一個体の冷酷な印象が、先日の二月十四日から妙に崩れて「変な人」という感じになってきているのを如実に意識する。
 と、綱吉は自分の喉元に手がかかるのを感じた。
 冷たい手だ。
「んっ?」
 喉首を握るようにして持った両手が、ぜい肉を上に向けて搾る。かすかにあごを上向けたところで、あご先を片手で掴まれてもっと高く持ちあげられた。首を後ろに反る格好になる。
 覆い被さってきた影がチュッと異質な音を鳴らした。
 すぐさま、綱吉の両手がうごいて、自分の顔の高さに持ち上がったところでブルブルとして戦慄いた。
(んん……っなぁっ……?!!)
 六道骸は綱吉の真後ろにいる。目をひん剥いた視界に、襟足の髪を首にまとわりつかせている骸の白い喉があった。両手であごと首を固定させて、彼自身は真上からかぶさっている綱吉の口元を舌で舐めている。
「……っあ、…っ」
 軽く上唇を噛まれて震えが走る。発声のためにできあがった僅かな唇の隙間に、骸がおのれの舌先をねじ込んだ。
 ぴちぴちした濡れた音が、次第に、綱吉の耳にも流れ込む。
(なっ……、これ、ざらっと……、む、むくろのっ?)
 そうとしか思えないが、受け入れがたい。綱吉は両手の指先を痙攣させながらもしばらくディープキスをただ受けていた。やがて、暴れ始める。
「んうっ! うーっ! う!」
(なにすっ、ひいいっ、ひーッッ!!)
 つい一年ほど前までは女子とろくに会話もできなかった綱吉である。キスの経験も皆無で、これがファーストキスだ。
「ふあっ。ひぃ、ひゃめ――、ん! んぐぐぐぐっ!」
「…もしかして初めてですか?」
 底意地の悪い笑みを刻んだ唇が、ありありと、脳裏に思い描けた。
「君、涙が……、泣くんですか? 沢田綱吉。君はこんなことで泣けるんですか?」
「うあッ!」
 首元を掴んだ手がグッと力をいれて握ってくると、重大な神経の筋でもって口周りの筋肉と連動しているから、つい、食いしばっていた両歯も大きく開けてしまう。
「ひっ! ひぃ〜〜〜〜っっ! やめっ、ンンンン!!」
 相手を攻撃しようにも、体勢が悪すぎる。両手が骸の体に届かない。綱吉は仕方なしに縋りつくように骸の頭を掴んだ。指の間からさらりとした髪がはみ出る。
 ぴちゃッ。混ざった互いの唾液が音を跳ばして跳ねる。延々と嬲られるうちに、綱吉のあごまで垂れていって骸の指も濡らした。
「ふう……ッ、うううッ」
 キスの深さに朦朧としてきて綱吉の膝頭が大きく震えた。
 へなりとして、骸の髪を乱暴に掴んでいた両手が滑り落ちる。あごと喉元を掴んでくる骸の手首にしがみついて、かろうじて、力無く垂れ下がるのは防ぐ。
「あ……ッッ!」
 悲鳴のかたちに開いた口唇から、喘ぎに似た鈴音が搾り出された。
 顔にかかる荒い息を感じ取って、そろそろ限界だと悟ったのか骸がようやく舌を引っこめる。
 綱吉の唇から離れると、あごを掴んだ手を後ろに引かせた。綱吉の汗顔を少し起こすことになる。混乱と生理的な苦しさから、綱吉の目尻には涙が浮かんでいるが、その無色の雫をちゅっと吸った。
 両手から解放されると、綱吉はその場で腰を抜かしてしゃがみこんだ。
「げほっ。はあっ! はっ、っはっ、はあっ、はああっ!」
 両目を大きく見開かせて、夢中で酸素を貪る。
 骸はまだ真後ろに立っていて、自分の膝に手をついて腰を折り、綱吉に覆い被さるような体勢でいた。白い顔の目尻やら口元やらを手で拭うのに必死になって、綱吉は、わけもわからずに震えた悲鳴をあげる。
「なあっ、んなっ、ハッ、はひっ、はあっ、は、お、あ、お、おまえ?!」
「何したか、声に出して言って欲しいんですか?」
 トーンが低い声。それが耳元でしたのでハッとして綱吉は床を這いずって逃げる。手の内側で唇をごしごししながら骸に赤く茹だった顔を向けた。
「いいっ! 言うなよバカッ!」
「ファーストキス、ごちそうさまです」
「なぁ……っ!!」
 目の舌を赤らめた骸が、軽く自分の下唇を舐めてみせる。
 それを見て綱吉もさらに顔面を赤くした。眉を八の字にさせて、なんでわかったんだ、とかを思って羞恥心を爆発させる。
「ヒィイイイイイッッ?! なあっ、なあーっ、なにっ、なんだよぉ!」
 できるなら口に手を突っこんででも骸の唾液やらキスの名残やらをすべて掻出したいところだ。
 自分の口元を手で乱暴に抑えつつ、血の気を失った顔をする綱吉を骸は興味深げに見つめていた。
「思うんですけどね――」
 なにか、葛藤でもあるのか、苦しげに言葉の末尾がしぼんだ。
「マフィアであるという事実や、標的であるという事実を抜きにすれば、君のことはけっこう好きですよ。沢田綱吉」
「は、はあっ……、なんだよそれ」
 ほとんど泣いてる声で、綱吉が呆れ――ようとしたが、精神状態があまりに乱れていたので目を潤ませただけだった。
「だから……してみたというコトですかね? なかなかうぶな反応で楽しめましたよ?」
「う、うう?! な、あっ、アッ、――来るんじゃなかった、こんなところ!」
 真っ赤な顔でわめいて、綱吉は扉に向かって走った。冷えている金属製の扉を両手で押し開け、脱兎のスピードで廃墟を後にする。
(な、なんだっ、なんなんだ!)
 転びそうになりながらも、道路に飛びだした。
(りぃ、りぼーんっ、きょーこちゃあん!)
 自分の拠り所になっている者たちに縋るよう呼びかけながら、綱吉は、盛んに自分の口元を拭った。

***

 蝶番の重たい錆音を聞きながら、六道骸は、扉がそれ自体の重みによって自動的に締まるのを見つめた。自然と、右手が自分の口元に向かっていて人差し指の腹でもって唇を撫でている。まだ咥内に違和感があってあの少年の残り香を思わせた。
 別に……。
 低い声でささやいて、その声に自分でもハッとして言葉の続きを探す。
「別に、僕だって本気でやった訳ではありませんけどね」
 べ、と、軽く舌をだして、逃げていった相手の背中を思った。
 律儀に届けてくれた戦利品が手に残っている。安そうなチョコレートだから味に期待などはしていないが――、
(意外と嬉しいものだというのはわかりましたけどね。それだけだ)
 自らの咥内口蓋を舐めつつ、踵を返した。

 

 


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09.3.14
バレンタインデーな「2月14日→3月14日」のつづきです