ミズのオリ



 雨が止んでも雲は晴れずにいた。
 小脇に傘を抱えた少年は、校門の前に佇みながら空を眺めていた。校舎の方から、明るい髪の色をした男の子が走ってくる。
「六道骸っ?! な、なにやってんだよ」
 彼の幼い顔立ちを横目にして、骸は、びしょ濡れになった前髪を右手で掻きあげた。
「君を迎えに来たんです。でかけるって話を聞いていませんか?」
「知ってるけど……。合宿だろ」
 躊躇いがちに呻いてくる。彼は、ブラウンカラーの瞳をまばたかせて、濡れそぼった六道骸の頭から靴先までを眺め回した。
 どうして? 傘をささなかった?
 丸い瞳が発した無言の問いかけに浅く笑んで返す。
 意味のない微笑みで、単にごまかすためのものだ。二人は既に歩きだしている。六道骸に注がれていた好奇の眼差しが、今は、骸と沢田綱吉の両名の背中に注がれている。
 気後れを堪えた声で綱吉がささやいた。
「オレんちに行くんじゃないの。おーい、方向、逆だよ」
「僕らの行き先はあちらです」
 一瞬だけ、分厚い雲を指差してやろうかとの考えが頭をよぎるが骸は予定通りに住宅街を指差した。オッドアイを猫のように引き絞って意味のない己の考えを自嘲した。
 綱吉が、怪訝な顔で骸を見あげた。
 土地勘のある綱吉には何を示されたのかすぐわかる。
 この町に住む者ですら滅多に使わない私鉄があるのだ。その私鉄は山間を突っ切って隣町に向かう。黒曜町とは正反対の方向――。山越えを目指す鉄道だ。綱吉は困惑と不安とをひそやかに呑込もうとする。
「今回のボンゴレ合宿は親睦会だって聞いたんだけど……。山奥? 他の人は?」
 骸は首を左右に動かした。
「他の連中も来るみたいですけどね」
「お前のその荷物、合宿用に見えるぞ」
「君の分の荷も入っている」
「……オレとお前の分だけ? えええ……?!」
「他も来ます。警戒心を見せるんですか、ボンゴレ十代目? 何もしませんよ。できません、というのが正解なんですけどね。ほら。リボーンからの手紙です」
「最初にそれを渡せーっ!!」
 毒づいてから、沢田綱吉は白封筒を奪い取る。
 中には一枚のハガキが入っている。イタリア語で書き殴ってあった。歯噛みしたところで、骸が首を伸ばした。
 読み上げを聞くと、綱吉はゲームだと思った。
「オレと骸のチーム?」
「そんなところでしょうか。逃げきれば僕の勝ちです」
「あ、ああ、お前のな」
 オレは入らんのかい、と、口中で呟くのが聞こえたが、骸は気づかないフリをする。
 びしょ濡れになった体が乾いてきた。
 傘の柄を摘んで持って、骸は、ピチャリと滴る水滴を見つめる。
「どうして傘を差さないかと聞きましたよね? 通り雨になってきたと思えたら、復讐者の水牢を思いだしたんです。あの中の感覚をもう忘れかけていたんです。透明で軽くて肌に吸い付くものに体をキツく戒められて浮遊していたあの感覚……、体中が洗われて囚われる、あの、一風変わった束縛を思いだしたくなったんです。懐かしくなったんです」
 綱吉が手紙をたたむ手を止めた。
 顔をあげた。骸が小首を傾げて笑いかける。
「納得してくれますか?」
 二人分の荷物を詰めたリュックサックは大きい。六道骸は、片方の肩にリュックを担いで、もう片手は腰に当てて綱吉の反応を待った。
 のどをつまらせた挙げ句に、綱吉は骸を睨む。
「…………。オレ、そんなこと、質問したっけ?」
「いいえ。してません。目でしてました」
「じゃあ骸の気のせいだろ」
「そうだったんですか?」
 疑問を無視して、綱吉は見えてきた駅の入り口を見やった。寂れたもので一台の自動改札機の前には誰もいない。駅員の姿も見当たらない。雲はまだ分厚く天を覆い隠していた。

*****

(ルールその一、かくれんぼ。ルールその二、鬼ごっこ。ルールその三、不正はしない……、みんなの『気配』を感じ取ること)
 ぐわしぐわしと頭を洗いながら、綱吉は、上目遣いを水流に向けた。
 シャワーが顔面を伝っていく。
 すぐにジンと目に沁みこんで痛みを起こした。
「っ。ん〜……、無茶っ……」
 山間に建った小さな民宿が骸と綱吉の拠点だ。綱吉は、骸の持参したテキストを見て絶望したものだ。
(あんなんじゃ、ぜったい、無理だよ。いくら同じ少年ジャ○プだからってさ――)
 ぶつぶつと文句を垂れつつ、ふと、皮膚を撫でる水の流れを意識した。
 骸の言葉を思いだすにつれ、昼間の言葉に辿りついた。楔を打ち込まれたようにまだ綱吉の記憶に引っかかっている。骸はこう言う。
『体中が洗われて囚われる、あの、一風変わった束縛を思いだしたくなったんです』
 ザアア……。
 シャワーの音色に耳を澄ます。綱吉は、頭から両手を離してダラリと垂らした。裸の体を撫でて梳いていく無数の雨だれを感じた。
(水に洗われて水に囚われる感覚か。どんなのだろう。どんなのかなぁ。こんなんかなぁ)
 きゅっ、と、シャワーノズルを回した。
 水流が倍となって噴出す。少々、後ろに下がるくたいの強さだ。水音だけを聴いて、水を感じながら、綱吉は目を閉ざしたまま天を仰いだ。
(わからないや)
 つう、と、あごを滑り落ちていく滝を感じる。
 目を開ければ、やはり、沁みて痛む。だがもうシャンプーはすべて洗い流されたのか薬品的な沁み方ではなかった。
 シャワーを終えれば、骸が、畳の上にテキストを広げて待っていた。彼は指差ししつつ解説する。
「フリー○登場がその巻からです。『気配』を探ることがいかに重要かよくわかるでしょう。彼らの表情に注目して――」
「無茶いうなぁああああ!!!」
 綱吉は頭を抱えて絶叫した。涙声だ。
「ドラゴン○ールをテキストにすんな! オレに超サイ○人になれと?!」
「超ツナじゃないですか。なれますよ。その髪の毛」
「オレのは単なるクセ毛だ! さりげにコンプレックス刺激すんじゃねええ!」
「怒ると強くなるって特性も似てるじゃないですか」
「ジャ○プっちゅー共通点だけなのになんか説得力あるから怖いっつーかなんつっーかあ?! とにかあくッ、まんがを教科書にするのは間違ってるよ?!」
「僕らはまんが的なことを学ぼうとしてるんですよ。この山林の中から、獄寺隼人と山本武のチームか、もしくは雲雀恭弥と笹川了平のチームを気配だけで探り出して、」
 言葉を切ると、骸は、胸に張った貝殻のシールを手で抑えた。
「このシールを奪取する。まんがじゃないですか」
「ようするに、お前も、無茶だって思ってるワケだな……」
 半眼を返しつつ、綱吉が骸の向かいにあぐらを掻いた。コミックを手に取り、ページをめくる。
 骸も同じようにページをめくる。
 そのまま、一時間が経過しても、二人は何も喋らない。さらに一時間が過ぎたところで、綱吉は、続刊が荷物にないことに気づく。そしてさらに気づく。何をしてるんだ一体!
「……ハッ! 読みふけってしまった!」
「ん。もうちょっと」
 骸はとろとろと読んでいた。
「おもいっきり失敗じゃないかこの作戦?!」
 嘆きつつも綱吉は一度読んだコミックを取る。ヤケだ。

*****

(気配か。気配を感じるようになれ、か)
 呟きながら、六道骸は一人で林道を歩いていた。
 手には持ち手に迷彩彩色を施したサバイバルナイフがある。ばささっ、右手側から葉がこすれ合う大きな音がして、こめかみに親指の腹を押し当てた。ムゥと目を瞑る。
(転んでる。話にならないな彼は)
 ほどなくして、沢田綱吉が木の間に立った。
「う、うっづぅ」
 顔を泥だらけにしている。
 苦しげに鼻頭を抑える少年を、冷静に観察する。
「身のこなしは悪くないのでしょうね。君の場合は天性のドジが悪いんだ」
「フォローにもアドバイスにもなってねええよ!」
 両手をわななかせる綱吉には背中を向けて、一人で林道を進んだ。
(気配。気配を感じる……。自分以外の人間が、どこを歩いていて何をしているのか)
 綱吉に期待できない分、自分が、五感を研ぎ澄まさねば合宿を終えられない。思いつめる骸の後ろでは綱吉が悔しげに呟いていた。
「なんなんだよっ。もう、骸?! どこ行くんだよーっ」
「修行してきます」
「オレはどーしろと?!」
「まんがでも読んでたらどうですか?」
「うっ。稽古つけてくれるって――」
「話にならないので諦めました」
「早ァッ!」
 五分もたってない!
 とか、嘆く綱吉だが、足を止めた骸が睨んでくるので後ろにたじろいだ。綱吉の眼差しは握ったサバイバルナイフに向けられる。
 綱吉が青褪めた顔で頷くと、骸も頷いた。
 林の向こうに六道骸の背中が消えていく。綱吉は半泣きになってささやく。
「なんでリボーンはアイツとオレをペアにしたがるんだろう……? 冗談じゃないよっ」

*****

 湖畔に辿りつくと、六道骸は、水面にナイフを差しこんだ。
 垂直に水を切る。手を離せばナイフは沈む。
 オッドアイを細めて、嘆息した。地底に腕を伸ばして肩までを水に沈める。骸は、ナイフを拾った後に前進して腰までを水中に埋めた。
 前方に小さな滝がある。迷いのない足取りで、頭から滝に向かった。
 滝の水は氷を思わせるほど冷たい。瞑想をするには充分だと骸には思える。水の落下地点に立った。
 頭上に注ぐ流れが、顔面を伝っていく。
「…………」
 唇を薄く開く。
 ごぷ、と、すぐに咥内が水であふれかえった。
(水の感触。これか? あのとき、僕を縛って離さなかったもの。戒めながら体をそそいだもの。僕の檻だった水にこの流れは通じているんだろうか?)
 天に向けて手を伸ばす。指の間を激流が梳く。
 オッドアイを開くと水が沁みる。
 痛い。その痛みを自覚した途端に、ピン、と脳裏に閃くものがあった。骸は眉をひそめて背後を見やる。そこには誰もいない。
(――もっと遠く――?)
 心臓がバクバクと動いた。
 考えるよりも先に、右手がサバイバルナイフを握りしめた。
 ざばっ。静かな湖畔に波ができる。水中をあがると、骸は来た道を戻って駆け抜けた。
「う、うわぁあああっっ!!」
「!!」
 林道の真ん中、沢田綱吉が尻餅をついている。
 手中のナイフを回転させた。シュッと繰りだした一撃は綱吉の真前に立っていた少年の右頬を目指す。彼は、トンファーの一振りでナイフをたたき落とした。
「ちっ」
 雲雀恭弥は、目深に野球帽をかぶり、パーカーを羽織った姿で綱吉の前に仁王立ちになっていた。
「援軍か。運がいいじゃん、綱吉」
「ひ、ヒバリさん……」
 自らの胸を両手で抑えつつ、綱吉が青褪めて呻く。
 カンッ、と、靴先でナイフを蹴って、恭弥は林のはざまに飛びこんでいった。
 肩越しに綱吉に目配せして、軽く手をふる。
「もうちょっと遊んであげてもよかったけどね。それじゃ」
「ボンゴレ!」
 呼びかけつつ、骸は恭弥の視線を遮るようにして綱吉の前に滑りこんだ。だがこの頃には恭弥の方は完全に姿を消していた。
 肩越しに綱吉を一瞥して、骸は肩から力を抜く。
「無事なようですね――」
「……むくろ……」
 茶瞳をうるませて、あごを下向かせる。
「? ボンゴレ。どうしたんですか」
「あ。ありがとう。来るとは思わなかった」
「! …………」
 骸が口角をゆるく噛む。
 オッドアイを彼方に反らした――が、すぐに、ギョッとして引き戻した。
 綱吉は青褪めた顔色で口角を引き攣らせている。胸を抑えていた両手を、ゆっくりと開かせた。
「ご、ごめん。シール取られちゃった」
 ひく、と、恐怖で目尻をわななかせる綱吉である。
 Tシャツは、強引にシールを引き剥がされたせいで生地がよれてしまっていた。骸は唖然とした表情でその場に立ち尽くした。早すぎる決着である。

******

 無言で荷造りを始めた少年の背中に、沢田綱吉は幾度もかけた言葉をくり返す。
「骸ーっ、ごめん! ごめんなさい! オレの不注意です!」
 後ろでうろうろとしつつ、手を合わせて頭を下げる。
 綱吉の姿に何の感銘も受けないといった調子で、骸が呟いた。
「ええ、そうです。君の落ち度ですよ。わかりきったことを謝られてもしらけるだけなんですけど」
「お、怒ってるな?!」
「怒ってますよ」
「ごめんなさいってば!!」
 ついには土下座する綱吉であるが、骸は、手で持ちあげてみて、リュックサックの重みを確認しながら目を窄める。冷徹な対応をしてきた。
「寝たらどうですか? 明日には下山ですよ。多分、僕らが一番はやいゲームオーバーだ」
「……ご、ごめんッ……!」
「僕はね……負けるのが大嫌いなんですけどね」
「…………っっ」
 引き攣りつつ、綱吉は途方にくれる。
 嘆息して、六道骸はシャワー室に向かった。
「む、骸っ」
「おやすみなさい」
 有無をいわせずに引き戸を閉めた。
 やがて、はじめはまばらだった水滴は瞬時に増えていって濁流となって頬を打ち肩からしたたり落ちていく。一糸もまとわずにシャワーを浴びながら、骸はざわりとした胸騒ぎを覚えた。感覚で人の動きを理解する――、気配を感じろというのが合宿の目的だったろうか。断片的に思考が結んでは千切れていく。
 目を開ければ、頭上から降りしきる人口の雨粒が骸の視界を出迎えた。
 ぽつりと胸中に呻く。
(沢田綱吉の気配がする。これが、人を感じると言うことなのか)
 湖畔で神経を鎮めようと思ったあのとき、体に感じたのは沢田綱吉の身に起きた異変だった。驚きと共に静かに自覚した。
(できてる)
 知らずに喉は固唾を呑んだ。
(気配がする。絡みついてくる。僕の体に。感じてる――。体が。見えない腕に抱きしめられてるみたいだ。水……よりもぬるい。体中に……内側から触ってくるみたいに。あの水の檻よりも柔らかく手足に巻き付いてくる)
 シャワーの水流は止めどなく溢れて顔を洗う。
 焦燥感に駆られて思わず己の肩を掴んでいた。喉が鳴る。砂漠の真ん中に立っている気がした。ざばざば、頭から被るシャワーが視界を奪って耳にはフタをつける。
(……何を考えてるんだ)
 シャワー室の外の彼は布団に入って眠ろうとしている。
 心臓が高鳴る。骸は己の唇を舐めた。

*****

「――ん」
 ピクッと綱吉のまつげが痙攣を起こした。
 その背中を抱きあげた腕は躊躇うように動きを止める。
 深い眠りに落ちる直前は、意識が、陽炎に変わる。まぶたを開けるのは綱吉には酷く億劫だった。まぶたを閉ざしていても、周囲が深い闇に落ちていること、骸がシャワーをあがってきたこと、それくらいはわかる。不思議ではあった。それなら、今、片手で背中を持ちあげる腕は六道骸のものか。
(……水っぽい……)
 触れあった唇が濡れている。
 強烈な眠気に逆らうほどの誘惑が起こる。相手を確認しなくては。綱吉は微かにまぶたを持ちあげた。
「ねむれないのか?」
「…………。君が僕を抱いた」
 つう、と二度目に触れてくる唇はやはり水に濡れている。ポタポタ。水滴がシーツに落ちる。
 支えられた背中も湿っていく。
 濡れた体に抱かれている。それを自覚すると綱吉は目を閉じた。眠い。面倒なことになる予感がして猛烈に怖くなった。骸は言い訳めいた口調をくり返す。
「感じる。感じるんです」
 本能的なものに誘われて綱吉は意識を闇に向けた。骸の戸惑いに手を差し伸べてはいけないと頭の片隅で警報が鳴る。
 切れ切れの声で綱吉がうめく。
「…………。初めてだから、困ってるだけ……だ」
 眠りゆく姿を見下ろしつつ、骸は綱吉の手を握った。
 その手を、己の頬に押し当てる。苦しげに眉間を狭めて訴えた。
「いやらしい言い方をするんですね。まるで何度も経験した後だ……、そうなんですね。ボンゴレには。でも僕には僕を水の檻から救ったあなたと運命の下に結びつけていただけたようにも思えるんですよ。こんな世迷い言はボンゴレに不要なのでしょうが」
 三度目に触れた唇も濡れている。
 背中がおろされた。言葉もなく骸が隣の布団にもぐりこむ。

*****

 並盛町に戻ると、駅のホームに家庭教師が立っていた。
 綱吉は、リボーンと並んで歩きながら自宅に向かう。その後ろを六道骸がリュックを片手に掴んで歩いて追いかけてくる。
 声を上擦らせて、後ずさった。
「?! 一番乗りで合格?! なんでだよ」
「課題クリアしただろうが」
「でもシールは取られちゃった」
「組み合わせの妙だな。まあ三日も山にこもりゃあ、お前らなら、組んだ相手の存在くらいは肌に感じるようになるだろ。わかるか?」
「わかんないよ! ずっと一緒にいさせるのが目的だったのか? 怖かったんだぞこっちは!」
 最後はボソボソとした小声にする。リボーンは骸を肩越しに見やる。
「充分、修行ができてるようだぜ」
(オレにはいつもと同じ骸に見えるけど?!)
 思いつつ、綱吉は唇を抑えた。骸にキスされる夢を見たなんて誰にも言えないと胸中に独りごちる。彼の醸す存在感に怯えてしまうからあんな夢を見たのかとも思う。
 口が悔しげに殺した声で呻いた。
「なんだよ……。結局、ダメなのはオレだけかぁ」
「そんなことないぜ?」
「でもオレ、骸の気配なんて――」
 リボーンが意外に真剣な目をして綱吉を見あげていた。まだ晴れない空が並盛町を覆う。
「お前はいいんだよ。最初からできてたから」






08.8.7

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>>(反転)ちょうどDBのフリー○編がアツかったで…す