夕晴れ





 学校生活というものを知らない。
 実験室の壁がどんなに白いかは知っている。大人達の白衣と同じくらいに白くて、でも、白衣と違って汚れてしまうと簡単には変えられない。衣類の着脱のようにお手軽にはできない。僕は、学校教室の壁を見ながら、僕自身が汚したエストラーネオのアジトを思いだした。
 壁中を血だらけにしてまわった。
 最後には犬と千種と一緒に赤い手形をつけた。制覇の証であり、破壊した証明であり、僕らが自由を得たことを祝う血印だ。
 今も壁に右手をつけて、沢田綱吉は僕の脳裏にある無残な光景とはまったく方向性が違うことを喋っていた。僕は、それを、イスに座って足組して頬杖して壁を見ている気だるい姿勢で聞いている。後頭部からオレンジ色の光が差し込んでくる。
「……だろ? 知ってるんじゃないの。お前さ」
「まあ、知ろうと思えば知れますね」
 彼は、黒板を背にしている。戸惑っていた。
「なんだよ。乗り気じゃないの? 誕生パーティーくらいしてやれよ!」
「クローム髑髏が僕らの祝福を喜ぶと思うんですか」
「思うよ。思わないの?」
「思いますけどね」
 提案に素直に従いたくない気分だ。
 僕のこの気分がわからないのか、沢田綱吉は怪訝な顔をした。どこか馬鹿にした顔でもあった。オマエってニブいんだな、とか、そういう呆れを暗に訴えている。
「よくわからないなー、もう。だから、クロームの誕生日って何日なの? 教えてくれよ」
 彼女が何かの拍子で漏らしたのが発端らしい――、今月が誕生日なの、とか。沢田綱吉の周りの女子は、たしかに、じゃあ誕生会しようよとか言い出しそうだ。
 目を反らした。夕日から町の影が伸びる。
「本人に聞いたらどうですか」
「ヒミツにして驚かせたいんだよ。いいだろ? 骸たちももちろん来るだろ」
「参加するのは構いませんがね」
「何だよ。引っかかった言い方するなァ」
 やや間を挟んだ上で、少年はキョトンとした。僕が軽く睨んだからか、何か思いついたからか。
「……何が気に入らないんだよ?」
「…………」
 僕の誕生日なんて聞いたコトがないクセに。
 クロームの誕生日を聞くためなら君は一人で黒曜中にも来れるのですか。
 問いつめてやれたら気も晴れるだろう。自分の誕生日も年齢も、正確なコトは知らなかったがそれとこれとは話が別だ。
 短く密やかに吐息をついた。
 勘付かれたくなかったので、顔をあげる動作の中に隠した。
 沢田綱吉はまだ目を丸くして呆けた顔をしている。
 目の大きい少年だ。髪の色素も薄い。抱いたら折れそう。つつけば楽に壊せる。細い体。独りでに言葉が漏れた。
「優しいんですね」
「え?」
「君はお人好しだ。僕を許したし、僕らがクローム髑髏を利用することしか考えていないとか、そんな可能性を微塵も考えていない」
「…………え?」
「何でそんなに可能性を信じようとするんですか? 僕らが彼女を愛している可能性をなぜそんなに? それって都合の悪いモノには目を瞑るとか、そういう生き方に通じるものじゃないですか?」
「骸、ちょっと……。何いってんだよ」
「誕生パーティーね。ウチのマンション、貸してあげますよ。好きにしたらいいです」
「え?! ありがとう!」
 少年が顔を明るくする。それを横目にしつつ、カバンを取って席を立った。
 当然のように、沢田綱吉がついてきた。
「どーいう心変わりだ? なんだよ。なんだかんだいって、やっぱり仲いいんじゃん、お前らって」
「そうやって、また、心配してるみたいなこと言っちゃって……」
 この偽善者め。胸中だけで毒づいた。
 校舎をでたら、この空しい思いも晴れるのだろうか。エストラーネオの実験場を出たときと同じに自由を取ったと思えるのだろうか。空が夕日で明るく雲一つないのに、天井のある部屋でうじうじと考え事なんてしてるから気分が悪くなるのだろうか。沢田綱吉は救いようのないお人好しで、他人の心配をしょっちゅうしている人間だ。
 正直に言ってむなしい。綱吉には優しさを見せたら駄目だと勘が告げる。そうしたら、もう大丈夫だと思われたら、きっと、綱吉は僕を心配しなくなる。追いかけてくることもなくなる。僕はここでもまた演じなければならなかった。
 肩下をナナメに見やり、せせら笑ってやった。
「そういうところ、大っ嫌いですよ。八方美人で臆病で小物ですよ。所詮ね。君はボスとしての器以前に人間として小さすぎます」
 案の定、とてもイヤな顔をしてきた。まあ少し言いすぎだろう。綱吉は懐だけは大きい。
 むなしさと一緒に脳天にジンと沁みる歓喜を覚えた。彼に嫌われるのが嬉しいなんて僕のマゾっぷりも根深くなってきたものだ。サディストだとは思うのに。でも彼にいやがってほしい。僕という個体を。

 

 

 


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08.4.23