地獄帰り












1.
「疑問に思っていたのですが、」
 彼は曇った目をして俺を見た。
「僕の声は、もしかして、君に聞こえていますか?」
「…………?」
「意味がわからないですか。そのままの意味ですよ。僕の声には二つがある。一つは千種や犬や他の人間達にも聞こえている。もう一つは、僕ですら、あまり聞こえない……けれどあちらが僕の核です」
 言って、少年は自らの心臓を抑える。
「僕の魂は六道輪廻に置き去りにされている。君が、悲鳴が聞こえるというなら、それは僕の悲鳴だ」
「置き去り?」
 インパクトのある言葉だけを鸚鵡返しにした。向かいに座った少年を見上げる。沢田綱吉は混乱していた。待ち合わせをして、一番にやってきた彼と共に、残りのメンツを待っている最中だった。
 公園には燦燦とした午後の光が降る。しかし骸の周囲は翳る。彼が、やってくるなり、木陰に身を置くからだ。
 近頃、綱吉がよくする話題をぶり返させてきた。
「地獄のような悪夢を見るんでしょう」
 その件は、頭痛のタネだ。
 夜になるとすすり泣きが聞こえるのだった。目覚めても鼓膜に残る。
「あれがお前だっていうのか?」
 信じがたい思いで尋ねた。
 骸は遠くを見るように目を細めた。公園の外を二人連れの男女が歩いている。――女性の腹がふくれていた。
 妊娠、と、ボソリと呟いた。
「は?」
 綱吉には、骸の言動の九割は唐突すぎて理解しがたいものだ。今回もそうだ。タチの悪い冗談を聞く気分だ。
「六道骸とは何者だと思いますか」
「な、なんだよ。……お前だろ。骸」
「僕は、僕であるが少しだけ違う。六道輪廻の臨床実験に挑んだ直後、本当の僕が霊的な妊娠を経て産み落としたのが今ここにいる人間だ……記憶も性格もすべて引き継いでますが、しかし別人みたいなもので、僕は、六道骸と呼ばれるはずの存在のコピーなんですよ」
 ゲームかマンガの設定を無理やりに解説されたよう。わけがわからないので妙に気まずい。
 不意に悪寒を感じた。赤眼と青眼、六道骸の最大の特徴といえるオッドアイ。それが綱吉を射抜いた。奥に哀願を秘めて。
「彼が生きているなら、するべきことがあります」
 息を止めたまま、綱吉は感じたことを口にした。後に後悔することになった。
「お前。オレに、助けて欲しいって言ってる?」
「そうです。君に、本当の僕を連れてきて欲しいと言っている」
 後になって気付いたが、それは、目の前の彼にすれば死を意味するはずだ。









2.
 瞼という薄い皮膚がある。
 長いこと、開けずにいたが、午後になると日差しが強くなるのでカーテンの奥から陽光が入り込んでくる。瞼越しに強い白光を感じて、沢田綱吉は眉間に皺を寄せた。瞼を開く瞬間、裏側に赤い閃光が走った。
 上半身を起こすとすぐに顔を覆った。
 冷や汗で背中が濡れる。
 脳裏に六道骸の言葉が蘇る。
 昨日、骸は悪夢の世界を歩きまわる方法を教えてくれた――、それを試みたのは軽率だったかもしれない。後悔していた。胃液が喉を競りあがる。
「う、……え……」
 見てきたものを思い出しても、朝日を浴びても嘔吐感が起こる。気持ちわるい。地獄と呼ばれるに相応しい荒んだ平原。それの記憶があるのがいけないらしい。光を受けると、頭が――、脳髄も痛みだすし頭蓋骨も痒くなるしじくじくと傷みだす。
 しばらく動けずにいたが、階段をあがる足音に自らを鼓舞した。母親が部屋にきた。
「つっ君、いつまで寝てるの! 日曜日だからってだらけすぎはいけないわよ! ……って。アラヤダ。風邪?」
「ちょっと、気分が悪いみたい」
「困ったわね。お友達がきてるわよ」
 ピンとした。気力をふり絞り、彼の名前を呟くと、奈々が驚いた。
「約束してたの? 下で待ってるわよ」
 綱吉は部屋に彼を招くことにした。パジャマ姿のまま、ベッドに入っている綱吉を見て六道骸は大体の事情を察した。
 半そでの迷彩シャツを着て、黒いパンツを合わせた姿。右手につけた銀製のリングが存在感を放つ。正体がわからない存在、そうした特性を備えた霧のリングだ。
 閉めた扉に背中でもたれかかると、骸は腕を組んで静かな眼差しを送る。
「見つかりましたか」
 綱吉は瞳に焦燥をにじませて睨みつけた。
「サイアクの悪夢だった。今までで一番」
「ショックを受けたのですか」
 飄々とした佇まいは、こちらの反応はどうでもいいと語るようでイラッとさせられる。
「当たり前だっ。何だよあれは……。何だよ、あの生き物は! 何であんなっ、ひ、人はゴミか? エサか? なんなんだあそこは!」
「僕は地獄と呼びますよ」
「おかしいよ!」
 頭を振り回し、悲鳴をあげた。
「夢、だよな? あんなの全部、まがいもので――何なんだよッ。すっげーヤな夢だったよ。あんなの、もう……っっ」
「ムクロは、見つかりましたか」
 否定のために首を振る。体を丸めて蹲り、両手で前髪をくしゃりと握る。
 恐くなった。夢の中では、逃げまわるのに必死だった記憶しかない。悲惨な姿形の――どこか人間の面影を残した異様な生き物。彼らに囲まれるのがイヤで堪らなかった。
 真相を告白したら骸は怒るだろうし、見たものを思い出しても恐いし、自分の行動を思い出しても胸の底が厭に熱くなる。竦みあがって声すら出せない少年に、六道骸は冷淡な眼差しを向ける。
「あの世界を見れば嫌がるだろうと思っていました」
 彼の口調に、すべて見透かされている気がして混乱が大きくなった。顔を覆った指のあいだから、かすかに、左目だけを覗かせて骸を見やる。一筋の脂汗が頬を伝った。
「ここに来たのは、もう一度、選択のチャンスをあげた方がフェアだと思ったからです。ボンゴレ。恐かったのでしょう。六道骸の救出はやめても構いませんよ。悪夢は、いずれ、終わるでしょうしね。確かなことはいえませんが」
「そ……れで、いいのかお前は」
 もっとしつこく要求されると思っていたので驚いた。
 骸は簡単に肩を竦めてみせた。
「しかし無理強いはできないでしょう」
「骸。おい。待ってよ」
 扉のノブを掴む姿に制止を呼びかけた。
「今日はビックリしたんだ。ショックだったし、あんなの全部、初めて見たから……でも今度はちゃんと探す。見つけて欲しいんだろ?」
 肩越しに頷かれて、綱吉は、躊躇いから歯軋りをした。
「見つけたら、お前はどうなるんだ?」
「あまいですね。言ったでしょう。コピーなのですよ。今の僕に情けをかけるのは意味がない」
 ベッドシーツを軽く握った。
 体が冷たくなる。悪夢の破片が皮膚の表面を撫でるように刺して、日差しには、吐き気がこみあがる。
 その症状は一時間もすれば治ると告げて、骸は、
「どうぞ。汗を拭いてください」
 水色のハンカチを差しだした。そうして部屋を出て行った。残された綱吉はひどく極りが悪い心地になった。








3.
 ハァッ、ハァッ、ハッ、ハァッ。
 息がつまる。大気中に何かが混じって飛んでいる。恐らくは灰だ。黒かったり白かったり灰色だったり、時には、赤く染まっていたりする。不純物は喉に絡まるし粘膜を引っ掻くので、走り回っていると息苦しさを強く感じた。早歩きに切り替えるなり、げほげほと激しく咽た。粘膜が裂けたのか、少量の血が手のひらに飛び散った。パジャマの胸に擦りつけて拭った。
 沢田綱吉は、完全に足を止めた。
 赤い空がある。雲は黒く太陽は白い。木々は丸裸のまま茶色い大地に生える。左から吹く荒風になびく。平原のそこかしこに黒山がある。腐った臭いがして、知らない人間の手や足が見えた。
 くる、と、前方を伺った末に確信する。枯れ木の影に身を潜め、息を殺した。
 空を覆うほどの影が広がった。ようく見れば人のカタチを模しているとわかるが、巨大すぎてただの黒い塊に見える。影の下に本体がいた。綱吉の膝ほどの背丈で、腹をでっぷりと膨らませた小鬼がやってくる。この世界では影は人の頭上に出来るらしかったが、綱吉は、異界の人間であるが故か足元に影を作っていた。このために小鬼は綱吉に大しては極端に注意力が落ちるらしい。目の前を歩いて、過ぎ去った。
「…………」
 鼻腔の奥を引き裂くほどの異臭が残る。
 ぐわんぐわんとした頭痛が起きて、綱吉は顰め面で鼻を抑えた。限界まで焼いた魚を汚物と一緒に焚きだした酷い臭いだ。全身が怯んでなかなか動けない。
 自分の限界が見えた気がした。
 あと三十分。それで見つからなかったら、今日はもう引き上げよう。ふらつき、再び歩きだしてから決めた。
 悪夢の探索を始めてから三日がすぎた。
 地獄は広かった。
 骸の本体は見つからない。
 しかし界隈ごとに意味があるのか、血の池や針を生やした丘を見つけた。そうした箇所からは血臭が強く漂うと知ったので、そうした場所は避けて通るようになった。骸がそこにいるかもしれなかったが、覗き見る勇気はなかった。綱吉は不意に後ろを見た。
 ギョッとする。小鬼が土煙をあげながら草原の彼方から走ってくる。横に跳んで、身をかがめていると、八つ足の馬に縄で引かれながらケタケタ喜んでいる生き物が矢の速さで通り過ぎた。
 呆然として綱吉は土を握りしめた。
 土は、大地を離れるとすぐに砂に変わる。ざらっと流れた。
「狂ってるよ」
 今日の初めの一言だった。
 胃袋が煮え立つ。眉間を強く皺寄せ、耳を澄ました。
 かすかなすすり泣きは、波打ちながら響いてくる。
 再び走りだした。油断すると、四方から聞こえると思えて方角を見失う。血の臭いが段々と濃くなった。
 ここにいるか?
 直感として覚えた。綱吉はゾッと戦慄した。
 枯れ木の幹に血がしぶいている。木の根元で何かを処刑した後に見えた。すべての木の根元が血飛沫を塗られて禍禍しい儀式があったことを思わせる。むせ返るほどの血臭に呼吸が数秒だけ止まった。
 空に視線を逃がしても、勇気を与えてはくれなかった。白い太陽が気力を吸い取り、赤い空が意気を挫き、黒い雲が不安を呼び起こす。
 固唾を飲んだ。この悪夢での探索は自分だけが頼りになる戦いだった。
 赤く塗られた枯れた森をくぐる。
 ウゥ、ウー、ヒック……。霞の向こうから聞こえてくるすすり泣きが、鼓膜をたたく。全身の震えに耐えた。強く奥歯を噛む。
 森には池があった。
 赤くない。白い。白い池の中心に、ぷかぷかと何かが浮かんでいて背中が見える。
 ウウ、ウゥ。すすり泣きがする。
「誰かいる?」
 不安に駆られながらも尋ねた。綱吉の視線は池の中心に注がれていた。あれじゃなければいいと思った。
「おい。返事してよ。誰かいる?」
 枯れた枝が池を取り囲み、綱吉の声を赤い闇へと受け流す。
 しばらくして、目尻を拭った。
 心細さと恐怖感から自然と涙を漏らしていたのだった。口角を強く食んで、池の中心に向かって進みだした。
 ざぶ、ざぶ、綱吉を起点に、白水が楕円の流線を描いて広がる。
 目に見えて己の震えがわかる。
 浮かんだ背中を前にして、綱吉は低い声で呼びかけた。
「泣いてるのはお前か……?」
 反応はない。微かに、上下にぷかぷかとしている。そこで、波のないこの池では、物体が揺れる現象が起きないことに気付いたが(入水以前からぷかぷかとしていたのに)、ぐっと堪えて、ばしゃあっと水飛沫をたてさせた。両手で水上のモノをひっくり返した。
「っっ!!」
 即座に、踵を返していた。
 知らない子どもの顔だった。
 白池が波打つのが後ろから聞こえてくる。子どもが暴れていると思えたが、無視して、全力で森を走った。何度も目尻を拭った。涙が止まらない。心底から呼びかけた。
(骸! どこだよ!!)
 そのとき、足がもつれた。
 右肩から倒れてずしゃあっと土を巻き上げた。つい先ほどの衝撃と、物理的な痛みと、地で汚れた大地に横たわってしまった事実に精神的な打撃を受けて、子どものように喚き散らしたくなった。
 肘を震わせながら体を起こす。
 背後にあったのは小さな人影だった。ほとんど感性だけで声を発した。
「骸さん?」
 自分の言葉に驚いたが、綱吉は恐る恐ると這って道を戻る。
 赤茶けた大地に子どもが倒れていた。
 枯れて血をまぶされた木々の狭間で体を丸めてピクリとも動かない。厭な予感が足の裏から湧き上がって全身を貫いた。脳天に昇っても消えずに、指先に、ピクピクした痙攣を起こせと命令している。
 子どもの姿をした黒い物体――、肩と思われる箇所に触れた。
 僅かに揺さぶる。
 黒い肌のところどころに、亀裂が走って白く乾いた身を晒す。骨だ。
「し、死んでる……」
 六道骸の魂は絶命していた。
 頭髪すらまばらに残る程度だ。数本しかない前髪を掻き揚げて、死体の目を覗き込めば眼球はなく黒い窪みがあるだけだった。
 心臓の脈打ちが遅くなる気がする。全身が冷たくなって、恐怖で思考が縛られる。
 どうしよう。
(骸に、何て言えば……)
 死んでいた。これでは連れ戻したところで意味がない。
 すすり泣きが頭にこだまする。ウゥ、ウウ、悲しげに鼓膜を打つが、確かに抱き上げた子どもから聞こえるのに、生命の香りは感じなかった。
「骸」
 頬を撫でてやると、肉が削げ落ちた。
「死んでも泣くのか? 悲しい奴なんだな……」
 両手はおろか体中にべとべとしたものがこびり付く。乾いた死臭が鼻の粘膜にこびりつく。くしゃみをした。くさい。
「……今のお前のままでいいんじゃないかと思うよ……」
 するりと胸に浮かんだ言葉が漏れた。死体の骸に向けたものではなかった。
「オレが知ってる六道骸は、おまえだよ。戻らなくていいよ。骸」
 子どもの亡骸を背負った。
 骸と約束をした。こんな状態であっても、連れ帰って見せてやるべきだろう……。森を抜ける前に、再び、池に立ち寄れば、あの子どもは背中を見せてぷかぷかと浮いていた。
 枯れた森を出て、綱吉は空を見上げた。
 背中に冷たい重みがある。パジャマも手足もどろどろに赤く汚れて、肉のかけらがこびりついた。
(起きなきゃ。この悪夢から起きる)
 頭の中心に向かって願う。骸に教えられた通りに、くり返し念じた。悪夢から起きる。悪夢から起きる。これで、何度も悪夢から逃げたのと同じに、今回も――。
「!」
 背後に、息吹を感じた。
 ふり返れば、六道骸が立っていた。
 迷彩のシャツに黒いパンツ。いつか見たのと同じ姿だった。赤空と黒雲、白い太陽を頭の上にして腕組みして、見るものを凍えさせるほどの冷めた眼をしていた。
「え……? お、まえ、なんで」
 思わず体が力んだ。
 背負った亡骸がぐしゃりとしたので、指がめり込んだことを知る。
「お前、ココには来れないって」
「ウソですよ」
「?!」
 赤と茶がまばらに混じった大地にブーツが沈む。歩み寄ると、骸は綱吉の二の腕を掴んだ。その背中から死体の肩を抑え、引き摺り下ろす。
 ずるっと滑った音がした。
 綱吉が叫んだ。驚愕の悲鳴だ。死体の片腕がもげて足元に落ちた。
 片方の眉根をひそめたが、骸は声をあげなかった。
 両腕で子どもの死体を支えた。
 ゆっくりと大地におろし、上体は木の幹に預けた。
 彼は、屈みこんだままの体勢でふり返り、視線を投げて寄越した。
「連れ出しは禁忌です」
 立ちあがり、真正面に体を向き直らせてくると、綱吉は気圧されて後退りをした。
「な……何なんだ?! 話が違うじゃないか!」
「鬼どもが、君を憑殺しにくる筈だった」
「!!」
「すべて計画通りに進んだ……。もう少しで、第三者にはまったく理由もわからずに君はベッドの中にいながら苦悶の死を迎え――」
 言い終わらぬ内に、骸の右頬にこぶしが当たった。
 走りもしないのに、ぜえぜえと呼気を荒くしていた。今更に背中に担いだ子どもの重みを思い出し、その異臭に鼻を焼かれて吐き気がこみあげた。
「ふざけるなっ!!」
 何を叫んでいるのか、綱吉にもわからなかった。
「オレは、真剣にっ、助けようとしてたんだ!」
 オッドアイで冷酷に見返してきた。
「君は、もう目覚めなさい」
 骸が短く呟く。意識が途切れた。
 直後、綱吉はベッドの中から天井を見上げていた。汗で濡れて全身が水に浸けたようだ。
 現実を受け入れるのに、時間がかかった。



 









 

 

 



4.
 呼び出しに逆らおうとはしなかった。追求からも逃げようとはしなかった。
 骸は、その日の夕方に綱吉の部屋を訪れた。
「話したことはすべて真実です。僕は、ただ言わなかっただけだ……。コピーがオリジナルに成り代わる、それのどこがいけないと言うのです?」
「…………。オレを殺す気だったんだな」
 扉に背中でもたれて腕組みして、黒曜中の制服姿で、六道骸は嘆息をこぼす。オッドアイは呆れを交えて綱吉を見る。
 その眼差しは冷めていたが、怯んで言葉を失くすほど甘くはなれなかった。骸が何度も指摘したように、甘く、寛容に裏切りを許すことなんて出来なかった。
「酷いことしやがるんだな。お前のこと、信じたいって思ってたけど――、こんなことされちゃー無理だっ。信じられないっ!!」
「君でも僕を怒ることがあるんですね」
「当たり前だ!!!」
 カッとして机を掴んだ。握りしめる。骸は入室したときから悪びれた様子がないから怒りが増す。彼は、こちらの私服姿を面白がるように眺め回して、室内を見渡して、目を細めて、まるで初めて仕事仲間のプライベートな一面を見たという顔をする。
「ふざけるなよ……っ。ふざけてばっかでいるなよ! 人をオモチャにすんな!」
「そうじゃありませんよ。ボンゴレとは契約できそうもないですし、成り行きで僕も守護者になってしまったし、ココは、手っ取り早く君の死ですべてを終わらせようと思ったのですよ」
「て、手っ取り早く?」
 瞼の裏が怒りで焼ける。
 裏切られたとの思いで胸が裂ける。体が熱くなる。
「そんな――風にしか思えないんなら、やめればいいだろ。引き止めないよっ。骸。そのリングを捨てていけよ!」
「万が一、今回の作戦が失敗しても、君ならそう言う程度で済ませると思いましたよ」
「っ、知るか! お前なんか知るか!」
 喉が裏返る。張りつめたものが緩むと綱吉にもはっきりとわかった。骸を責めるための言葉すら、ろくに頭に浮かばない。こうなると泣くことくらいしか怒りを散らす方法がない。根性で涙腺を締め上げた。そのために拳を強く握って背筋を伸ばす。
「怒ってるんだ! もうリングは捨てろよ」
「…………」
 六道骸はニッと口角を吊り上げた。
 一歩、二歩、三歩。
 歩み寄ると、しゃがみ込んで綱吉の鼻先に霧のリングを示してみせる。右手の人差し指、その根元にしっかりと嵌っている。
 これ見よがしに、霧の刻印に唇で触れた。
 浅いキスだ。オッドアイを絞って骸が反応をうかがう。
「……捨てればいいじゃないか……」
 彼の真意がわからない。混乱しながらも、綱吉はリングを見つめた。
 それをスキと見たのか、左手が綱吉の顎に触れた。軽く上向きにされても抵抗の方法がわからなかった。
「あまい人ですね。あの世界に潜ることには耐えたのに、僕を切り捨てるのは耐えられないのですか?」
「お前、オレの言ってることがわかってんのか……怒ってるんだ! やめろよ!」
 かぶりを振って後ろに身を引く、が、あごを押さえた手が離れない。かごの奥に逃げた小鳥を残酷に連れ戻すのと同じ手つきで、骸はあっさりと綱吉のあごを掴み寄せた。
「今の僕は、本当の六道骸となるはずだったあの子どもが残した影の塊のようなもの。彼には空にも大地にも影がなかったのですけど、気付きました? 僕がここにいるのだから当然なんですよ」
 オッドアイが眼と鼻の先にある。
 静かな声からは相変わらず真意が読み取れない。もういいよ、と、何を止めて欲しいのかわからないままで綱吉が呻く。骸は相手にしてくれない。
「ボンゴレ。君の声は、聞こえましたよ。あなたはこんな僕を受け入れようというんですね……?」
 それなら、もう少し、ココにいてあげてもいいと思えましたよ。
 続いた言葉に心臓を刺された気がした。
 眉間を寄せて綱吉が息を呑む。
(それ以上、喋るな!)
 同情の余地を作らないで欲しかった。彼が無意識に口にしているらしいのが、また、心臓をちくちくと刺す。結局、成り代わったに過ぎない己を恥じるだけの人間らしさを備えている彼を責め続けるだけの冷酷さが綱吉には欠けている。
 悔しげに混迷に耽る瞳は、骸を満足させるものだった。
 彼は笑みを深めて唇を寄せた。
「地獄は僕の生まれ故郷だ。鬼どもが君を殺さなかったのは、君から、僕の香りがしたからです……。沢田綱吉。君は死体を連れ出しはしなかったが、動かしはした……。念のために、処方をつけてあげますよ」
 人とキスをするのは初めてだったが、綱吉は目を見開かせての驚愕程度しか反応が返せなかった。怒れもしなかった。
 軽く吸い上げてから骸が身を引く。
 態度を吟味するかのようにオッドアイが顔面に突き刺さる。キスしたのにまったく恥じ入ることがない彼に、屈辱感を与えられて綱吉は顔を火照らせた。
  そして、彼の秘密を知ったからにはこれまでの淡白な関係ではいられない。その予感に敗北感まで与えられて全身が凍り付いた。
 



 

 

 


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08.3.4