雪に埋もれるばかり



 見上げれば、黒空に白い斑点があった。
「雪かな」
 少年が小さく呟く。
 雨で濡れたアスファルトを歩きながら、傘を畳んだ。雨が降り出したのは半刻前になる。沢田綱吉は、分厚いコートに、三重に巻いたマフラーを合わせ、防寒に気をつけていたので慌てることはなかった。冬は家でごろごろするのが習性なこの少年、寒さへの耐性は著しく低いので、外出時にはめいっぱい着込むのだ。
 ガラスの自動ドアを通り、肩越しに見遣れば、外は雨と雪が混じったものが振っていた。太陽もないのに眩しく感じた。マンションの受付を煌々と照らす電灯が、水滴に乱反射を与える。
(こういうの、億ションっていうのか。大理石かなこれ)
 インターフォンを押すと、相手は簡単な質問を繰り返した末に告げた。
『入ってください。十六階の左フロアです』
 言われたフロアは、右と左にしかドアがなかった。綱吉は困惑しつつも左のチャイムを鳴らす。
 すぐさま、一人の少年が扉を開けた。
「いらっしゃい。沢田綱吉くん」
「こ、コンバンハ」
 六道骸を前に綱吉は気後れをした。
「あがってください。僕への密書ですか。千種と犬にも内緒に?」
「お前とクロームさん宛てだよ」
 玄関に引っ込み、綱吉を待ちながら、骸はつまらなさそうに鼻を鳴らした。デニムのポケットに両手を突っ込み、小馬鹿に笑みを作る。
「つまり、霧の守護者宛てなワケですね」
「……そうだな」
 イヤミな訂正にムッとしたが、綱吉は中に入った。リビングに通されて目を丸くする。天井から床まで、一枚ガラスが嵌められて、それが二面の壁を丸ごと占拠していた。隅にソファーと観葉植物が置かれ、ランプが置かれ、小さな丸テーブルが置かれているが、それ以外に家具らしいものが何もない。広いだけのリビングに歩き出しながら、綱吉はますます困惑して、思わず、する気のなかった自発的な質問を口にした。
「ここ、なに?」
「僕の部屋ですよ」
「部屋って……。台所とか、何もないよ」
「ありますよ。そっちがバスタブ。トイレも付いてます。あっちの扉の向こうには寝室があります」
 順に指差し、最後に、ソファーを指差した。座れという意味だ。綱吉は一抹の不安を覚えつつも腰を下ろした。骸はバスタブだといった小部屋の隣に向かうと、一人が納まるのがやっとのスペースでがちゃがちゃとやってマグカップを二つ持って来た。
「クロームは、今、出かけているので話をするのは後ですね。これでも飲んでお静かにどうぞ」
 親切にされると不気味だ、と、思ったが、綱吉は会釈してマグカップを取った。ホットココアだ。ごく自然に綱吉の隣に自ら腰掛け、骸はソファーの背に片腕を回した。綱吉は肩に腕を回されたようで落ち着かなくなった。
(郵便じゃ送れないからってオレが来たんだし。何も、別に、そりゃ返事はいるけど待つ必要は……。別の日に返事だけ聞きに、またここまでくればいいじゃんか)
 胸中で並べ立てつつ、ココアをすする。綱吉も骸も、無言でマグカップを傾けていた。
(黒曜町までくるのメンドウだけど。こんな、気まずいよりかはマシじゃんか)
 段々と額に冷や汗が浮かぶ。喉をごくりと言わせた。骸は、苦手だった。不気味な上に何やら手に負えない相手な予感がするからだ。綱吉は思う。
(黙るのか。怖いなぁ。帰りたい)
 静寂が続いて、骸の様子を窺う勇気もなくなってガラスの向こうを見る。雨と雪が絡まって落ちる。地上から見上げたときは、雪は細く小さく砂粒のようにも見えた。高いところから見ると、雪は砂粒を三つほど重ねたくらいに大きいことがわかった。途中で雨に絡まって、雪から水に変わるか、溶かされるかして、地上に届くころには小さくなるのだろう。
「クフフフフ」
 隣が不意に笑い出した。
「マフラーしたままココアって、変ですよ。取ってはいかがです? 何も君を取って喰うわけでもなし」
(オレを契約対象にしか見てないクセによく言う)
 ちらっと窺い見ると、オッドアイの赤眼の方にぶつかった。どきりとした。もしかしてずっと見ていたのかと思ったからだ。
 綱吉は骸の姿を確認した。細い体のどこにも武器を隠しているような凹凸は無い。慎重な態度でマフラーを外した。視線を意識すると、唇がするりと疑問を漏らしていた。
「柿元千種とか、犬は?」
 すぐには答えず、骸は黒い水面を舐めた。
「右のフロアです」
「ぶふゥッ」
「言ったでしょう。ここは僕の部屋だって」
「おまっ。一人でこんなトコ使ってんの?!」
「支配者たるこの身にふさわしい場所にいるだけです」
 軽い調子で返して、ティッシュの箱を取り上げる。綱吉は一枚だけ抜き取って、汚した口元を拭った。今度は頑として黙り込んだ。会話をすると、余計に怖い思いをすると悟ったからだ。綱吉の思惑を完全に読んだワケではなかろうが、骸は、やがて自ら話し出した。
「一ヶ月ぶりですか。高校生活ってどんなものなのですか? 他の守護者連中は今、なにを?」
「まあ、適当に……」
「密書なんて珍しいですね。てっきり、もう、ボンゴレは君を諦めたのかとね。中学の卒業と同時にリボーンは帰ったではないですか。あれは、君の教育が終了したのではなくて、君の十代目就任を諦めたのではないかという噂、イタリアであったでしょう? そちらが意外と真実ではないかと――。そういう意見もありますよ」
 僅かにマグカップを強く握った。綱吉は、ハッキリと困惑を眉根に描いて骸を見上げた。顔を向けて、赤と蒼の両眼を見つめて、苦しげな声で呻く。
「本気で、そう思ったのか?」
「……そう思いませんでしたよ。僕は」
「じゃあ誰がだよ」
「千種達ですよ。あと、まあ、イロイロとね。そちらに全く動きがないのですから憶測が流れるのは必然でしょう。不服なら、行動を起こしてください」
 感情の見えない物言いに、綱吉の胸が痛む。
(お前に、何がわかるわけ?)
 尖らせた文句を脳裏にこぼす。口には出さなかった。
 室内を囲んだガラスの向こうは雨と雪が混じって、今では次第に雪が優勢になっていて、雨粒のが少なくなっている。綱吉はココアをごくごくと飲んだ。
(リボーンはまだオレの家庭教師だよ。イタリアにいるけど。……監視してるんだよ。オレが一人歩きできるか、ずっと見てる。仕事ができるか見てる。お前、そういうの全然知らないで、なに偉そうにクチをきーてんだ。ムカつくじゃん)
 ココアが底を付く。丸テーブルにカップを置いて、マフラーを両手に持ち、ソファーを立つ。
「オレ、帰るから。これは置いてくよ。また今度、答えを聞きにくるから」
「クロームはそろそろ帰ってきますよ」
 平坦な声だ。綱吉の言動に驚いていない。綱吉は冷めた目を向けた。
(お前のその、見透かした態度――、何でもお見通しって感じにスカした態度、苦手。だからお前は不気味なんだ)
 丸テーブルに封書を置いて、会釈をすると踵を返した。六道骸は、玄関まで付いてきた。ホットココア入りのマグカップを手にしたまま。
「沢田綱吉くん。君って、かわいいですね」
 扉を出る直前、骸は、唐突にそんなことを言った。真顔で、だ。カッとして綱吉が叫んだ。
「ふざけるのは大概にするんだな!」
「事実、ふざけてるんですけど、ウソを言ったつもりもありませんよ。あれ、あの密書、イタリア行きの話を綴じてあるでしょう? 君はずっと憂鬱そうにしてますね」
「!」
 ハッとするのも束の間、片手を取られて、血の気が引いた。身を引くが、六道骸は怪訝な顔をしてみせる。右の口角が意地悪に歪むので、その表情は真意を映していないと語るのだが、
「傘、貸しますよ。そんな小さなビニール傘では肩が濡れます」
 マグカップを置くと、骸はフロアを出た。
「え? ちょっと。いいよ、そんなの」
「まあまァ」
 心なしか愉しげにして、右のフロアのチャイムを押した。
 出てきたのは柿本千種だった。スウェットにだぼついたズボンと簡単な格好だ。彼は言われた通りに大振りの傘を骸に渡した。
 実に自然な動作で、綱吉の肩を掴んだ。
「送りますよ」
「えっ? いらない、ん、ですけど」
 強引に抱き寄せられて、いやな汗を掻きそうだ。骸は一階に来ると手を放した。マンションのセキュリティシステムの一環にして、外と内とを分ける自動ドアの上に立ったときに、ようやく。
(なんだ、こいつは……)
 釈然としないままで、綱吉は骸を振り返った。
「見送り、ありがとうございます。じゃあ」
「ボス。それでいいんですか」
 からかいは胸を刺す。これだから、綱吉にとって骸は不気味で怖いのだ。ボスとしての言葉を綱吉は数秒で選んだ。
「いい返事、待ってるから」
「ええ」
 骸はニコリとする。彼の背後でエレベーターがチリンと鈴の音を立てた。一人の少女が、胸に傘を抱えて小走りでやってきた。度肝を抜かれた。
「なァッ?! く、クローム髑髏!」
「骸さま、傘です。ボスもこんにちは」
 カーディガンを肩にかけて、クロームは胸を弾ませる。黒傘とコートを両手に抱えた姿で骸に並んだ。クスクスとして、顎を引きつつ、骸は少女の腰を抱いた。
「いい子ですね。クローム」
「何でここにいるんだよクロームが!」
「? 千種が持っていけって……。骸さま?」
「僕が頼んだんですよ。これでいいんです」
「よ、よくないよっ。骸! おまっ、いないって言ったじゃんかっ! 何で騙すんだ!」
 骸はクロームごと後ろに下がった。自動ドアがしまる。その刹那、骸は綱吉にばいばいをした。手を振る仕草も、ニッコリした顔も、爽やかだ。
「では。また。返事を聞きに来てくださいね」
「なぁっ……?!」
 ドアが閉まると、マンションの受付には綱吉だけが取り残される。
「こ、コラーっ! また、じゃないだろー!!」
 叩いてもドアはビクともしない。ぐぬっ、と、歯噛みして、最初と同じにインターフォンを押した。だが返答がない。怒りに拳を作ったが、そこで、別の住民が姿を見せたので綱吉は急ぎ外に出た。
(なんか知らないけど嵌められたッ)
 イライラとした。傘を広げるのも忘れて雪の中を往く。雨は完全に消えた。骸は、肩に雪が積もるといったが、気温は低いので雪は溶けづらいし服を濡らさないし、結局、家まで傘を差さずに来れてしまった。不快な思いをさせられただけ損な訪問だったと綱吉は思う。
「つっ君、その傘はどうしたの?」
 沢田奈々が玄関を過ぎりながら尋ねた。
「友達に貸してもらった……」
 憮然として答えて、しかし思い直して外に出た。
 傘を広げてみる。骨組みが通常のものより多く、光沢のある藍色の布が張られている。使わなかったら使わなかったで、後々、何か言われそうな気がしたので、ひとまず濡らしておくのだ。
 と、ヒラリと、目の前に落ちるものがあった。
 薄っすら積もった雪上に乗る。拾い上げて、綱吉は目を窄めた。拙い日本語は初めて見る文字だが、十中八九、骸の手書きだ。書き取りが苦手だとは知らなかった。
 音読をしたのに他意はない。どうせ大した内容ではないと思った。
「……キミさえ良ければ、連れ去ってあげますけど?」
 数分の間、立ち尽くした。凝視することで薄っぺらい紙片に穴を空けることができるなら、手中のものは粉に変わる。やっとのことで、呟いた。
「おま、キザ」
 綱吉は小刻みに戦慄いていた。
(返事を聞きに、来てください、ねえ……)
 喉が痛い。瞼の裏が熱くなる。搾り出した声が、胸に落ちる。
 傘を手放した。雪を浴びれば涙は流れる気がした。






08.1.17

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