蛙の合掌





 あうう。
 呻き声で彼はパチリと両目を開ける。
「誰ですか? どうやってこの場所に?」
 相手を確認する前に質問をしていたが、少年自身は当然のことと考えた。この暗くて冷たい水の筒は、自分のためだけに用意された監獄だ。凡人が辿り付ける場所ではない。
 ううう、ううう。
 声が細くうなって消えていく。
 少年は草原に立ち尽くしていた。
 衿を立てた白いシャツ。黒色のジーンズが下肢を包み込む。
 彼自身が本来いる場所ではない、現実と夢幻とのあいだのか細い場所に彼は立っていた。太陽のない空は、ただ青いだけで寒寒した風が吹きすさぶ。
「……死者?」
 前髪をはためかせながら、少年がうめく。
 そのときだった。体を前に投げ出し、両手で地面を抉ると六道骸は背後へと鋭い一瞥を投げた。人の形をした黒い闇が、今、まさに彼を掴まんとして両腕を伸ばしていた。
「愚かな。僕の体が狙いか?」
 骸の霊魂はここにある。
 つまり、体には何も入っていないことになる。
 その隙間を狙われる可能性は常にあったが、骸は余裕を崩すことなく黒い影をじろじろと眺め回した。やがて、ニィッと歯を見せる。
「貴様ごときに『六道骸』の体が使いこなせるとは思わないな。容れ物には、それに相応しい操縦者がいなければなりませんよ」
「…………うう」
 影がゆらぐ。
 熱病に冒された足取りで骸を目指す。
 突き出された両腕。汚らわしいものを見る目でそれを眺めてから、骸はつまらなさそうに両腕を組んだ。
「目が見えないのか。幽霊なら、幽霊らしく感じたらどうだ? 私の体を乗っ取ったところで、君には何もできませんよ。僕の窮地は僕にしか救えない」
 浅いため息を重ねながらの言葉になった。
 骸は、極めて気軽に片手を掲げる。五本の指を開かせて、それで影の額を鷲掴みにした。
 あう、あう。あう。
 一瞬で懐に入り込んだ生者の霊魂に影が動揺した。
 左右の身ぶりを大きくして、一歩二歩と後退る。
 骸は目尻を笑わせた。了承に口角がしなる。
「女か。なおさら、僕に競り勝てるとは思えませんね」
 押し付けた手の甲を起点として影が取り払われる。
 乾いた肌をした女性が骸の目の前に残る。歳の頃は四十代で、酷くやつれた顔をしていて、眼球がある場所には黒い窪みだけがある。
「△△△▲△▼!!」
「あいにく、僕も神ではないので……」
 僅かに顎を引き、骸は悪びれもなく二の句を告いだ。
「全世界の言語を理解してるワケじゃない。何いってるんだかわかりませんよ」
 額を抑える腕とは別。もう一方の手を胸の前に引き寄せると、骸は女と距離を取った。数秒で女の体そのものが吹っ飛んだ。
 その胸に骸の腕が深々と刺さっていた。
 霊体に血はない。しかし、罅は走る。骸は老いた体に走る亀裂を静かに見つめ、女の顔を自分の肩口へと埋めさせた。
「お眠りなさい。来世は、まだマシな人生が送れますよ」
 薄目を開けての言葉は、やはり気楽なもので真実味は薄い。うう、うう。嘆きを抱えたままの死は辛いものだと一応は骸も知っている。
「何が心残りなんですか?」
 あうう。ああううう。
 うめきながら女が拳をつくる。
 すでにヒビが全身に走り、そのヒビから生まれた光が彼女を人の形に留めていない。無理やりに成仏させた魂は、霊魂に亀裂を残すので今後の生では遺伝的な欠落を起こすのだが、骸は、それを知っていても教える気は無かった。慈愛の笑み、それに近いものを口角に乗せながら女の手を取った。
「▼▼▼」
「…………?」
 光が強くなる。
 引き止めることもなく、成仏を見届けた。風は止むことなく少年の髪の毛を揺らす。
 指で撫で付けながら、たった一人に戻った草原を見渡しながら、骸は口角だけで笑い飛ばした。
(あの歳なら、息子か、夫か)
(その線が妥当か? 何かと絡んで、……)
(愛しいもの……。執念という名の嘆きを残すもの)
(それか、憎しみか)
 衿が風に遊ばれて骸の頬を叩いた。
 すっと目を閉じる。すると、水の音色が聞こえる。さらさらとした脈動に、時折り、泡が弾けたための濁音が重なって賑やかになる。
 声は聞こえない。先日、少女を拾ったのは収穫だった。クロームと名乗らせて沢田綱吉の元へ行かせたことは記憶に新しい。
 骸はただ音として彼の名を呟いた。
「沢田綱吉、か」
 水の音色は絶えない。
(息子も娘も配偶者も僕には縁のない話だ)
(ゆるされてない。思えば千種と犬を連れてきたのも失敗だった。こうして水の中だ……、荷物はもう増やせない)捨てる、と、その意思は見出せない。それを自覚すると、いささか煮え切らないものが胸の表面を目指して競りあがってくる。
 声は聞こえない。草原の真ん中で立ち尽くしたままで、棒立ちになったままで骸は空を見上げた。
 青いだけの世界だ。体のない自分には本当はこの世界も意味が無い。空間も時間も関係がない。すべて、自分で作りあげたもので、慰みになれば面白いというだけだ。
(荷物か。僕が彼の荷物になるのか、彼が僕の荷物になるのか)
 右手を甲を眺めて、指の一本一本を目で辿った。
(ここに)嵌めるのだろうか。
 彼が差しだすであろう指輪を。
(まだ……。決められない)
 二色の瞳を細めて再び骸は水の音色を聞いた。愛しいものと憎らしいもの、もしかしたら、彼女は一人のひとにその両方を抱いたのかもしれない。
 そこまで考えて骸はため息をつく。
「退屈だと……、ろくな考えが浮かびませんね」
 段々と、人の心を読むようで自分のこころを読み上げるだけになる。
 つまらないものだ。まだ、体が自由に動かせるならこうした思考に終止符を打つことができるのだが。
 少年は目を閉じる。水牢に閉じ込められて以来、依り代として使っている少女の意識に自らの意識を混ぜる。まだ午後の二時だと知って、骸は途方にくれた。退屈はときに魂をくさらせる。




おわり


 



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06.12.13