地下室のミルク



「ぐあっ!!」
 コンクリートに投げ出されて、少年が悲鳴をあげた。
 年のころは十五、六。ブラウンの毛筋が、泥で汚れるのを男たちはニヤつきながら見届けて、スーツの襟を正した。スポーツカーから引きずりだされた、もう一人の少年の襟首が掴まれる。二メートルはあろうかという大男に腕一本で吊り上げられたが、彼はうめくこともなく、両目をかたく閉じたまま微動だにしなかった。
「チ。やなガキだぜ。すましやがって!」
「っ……」
 みぞおちに膝が叩き込まれた。
 少年の足元に薄く血痕が飛び散る。
 大男は、ブラウンヘアの少年にぶつけるように、彼をビルの地下室へと放り込んだ。
「あっづ!」背中から脳髄へと走る衝撃に、若きボンゴレが悲鳴をあげる。
「お前らの死刑決行はあしただとよ。それまで、仲良くやるんだな」
 少年二人は、折り重なったままで低くうめいた。嘆きのうめきがひとつと、怒りのうめきがひとつだ。
 扉がしめられれば、室内には一光も差さない。ベッドが三台は並べられるだろうほどの、小広い部屋だ。暗がりに目が慣れるまではしばらくかかるだろう。ブラウンヘアがうめいた。
「……どいてよ。重い」
 しばらくの沈黙。
 のちに、ごろりと六道骸がころがった。
 後ろ手に縛られ、足首も縛られたのでそれが限度なのだ。
 イモムシのように這って遠のく六道骸を見て、ため息がでた。
(ここまでくると逆にアッパレていうか、執念だよ)
 頭部からの出血が目立つ綱吉だが、実のところは、その傷は浅いのだ。売り言葉に買い言葉とはよくいったもので、骸がマフィアを前にして大人しく蹴られているとは綱吉も思わなかったが、罵詈雑言を語る少年がより多くの暴行を受けるのは自然の流れである。顔にアザをつくり、右腕の裂傷から血を流す少年の姿は、暗がりのなかでも哀れに感じられた。
「大した根性だよ……、あんた」
 咥内に切れた個所がある。
 そこに触れないように喋るため、綱吉の声はいくらか篭もっていた。
「君に褒められても嬉しくはない。それとも、バカにしているんですか?」
 対して、六道骸は張りのある声をしていた。衰弱してグタリと横たわっているが、声音だけは高慢で自信にあふれている。常の、綱吉の知る六道骸のままだった。その一点だけは。
「そんなんじゃないよ。純粋な、感想」
 無理やりに上半身を起こし、壁に与えた。
「あそこでオレを引き摺り下ろすか? フツー。自分も、後ろのやつらに捕まって、リンチにあうかもって思わないのか?」
「…………」骸が剣呑に眉をつりあげる。
「思いますよ。後続車がくる前に決着をつける自信はありました」
「ありました、って。あのな。オレだっておめおめと殺される気は――」
「――しかしコレでよくわかりましたよ。やはり、君の前に、あの目障りな男を殺す必要があるっていうのが」
 誰を指すのかは綱吉にもすぐに理解できた。
 雲雀恭弥だ。彼の正確な射撃があって、綱吉は命拾いをしたのである。一瞬、雲雀に感謝をささげそうになったが、これから先の未来を思えば、生存の喜びも色褪せた。
 骸は聡い少年である。なので、綱吉が眉を顰めると同時に、自ら付け足した。
「ここを無事にでられれば、の話ですがね。もちろん」
「…………」仲間の救援を待つしかなかった。
 きっと、来てくれるだろうとは思うが、間に合うかがわからなかった。
 獄寺たちが、自分の監禁場所を突き止めるにはどれくらいの時間がかかるだろう。
 今、できることはあるだろうか。次々と浮かぶものは、しかしすぐに煤けていった。全身が酷く痛んで、物を考えるのすら億劫だった。六道骸の息遣いだけが、聞こえた……。
「――――」
 と、どれほど経った頃か。綱吉は頬を引き締めた。
 足音がした。扉が開く。ダークスーツの男が、アルミ製のボウルを持って歩いてきた。
「オラよ。ボンゴレ十代目。テメーのとこの習慣だろ? 末期の水だ」
 軽薄なニヤ笑いを貼り付けながら、ボウルを差し出す。綱吉の顔立ちは、歳のわりには幼く大きな瞳のために迫力に欠けるところがある。しかし、それでも、少年は全力で男を睨みつけた。
「そんなものから飲めるか――っ」
「喉が渇けば飲めるぜ。犬みてーに這いつくばりな」
 ボウルにはミルクが注がれていた。イヌの水飲み皿、そのままだった。
 男は自らの言葉に大口をあけて笑いだした。扉が閉まるのと同時に、綱吉が吐きすてた。
「クソッ。捕虜の人権とか、ぜんっぜん考えてないなぁ」
 束ねられた両足でダンと床板を叩いた。
 苦々しく顰められたまなこでもってミルクを見下ろし、真っ先に文句を言いそうな少年が黙り込んでいることに気がついた。彼は背を向けたまま沈黙していた。綱吉の眉根が、ぐにゃりと歪む。
「おい、大丈夫なのか?」
 六道骸の返事はない。暗がりのなかで、横たわった彼は、ぜえぜえと体全体でもって過呼吸を繰り返していた。
 『く』の字に体を折り曲げていて、――改めて骸に目を凝らして、綱吉は悲鳴をあげかけた。少年の腹のところから、うっすらと色濃いものが広がっているのだ。
「血っ……?」車からだされたときに、腹を蹴られていた。
「ちょっ。ウソだろォ――っ?!」
 傷口が開くには充分な衝撃だったのだ。
 体を起こそうとして、バランスを崩したからだがコンクリートに伏せる。骸が、にわかにうめいた。
「静かに、してください」
「そ、そういう場合じゃないんじゃ……っ?」
 ぜえええ、と、ひとつひとつの呼吸を噛みしめるように肩が上下していた。
 骸と言う少年を敵と認識する場面の方が、圧倒的に多い。しかし、それでも、綱吉は本気で骸を殺そうとしたことも見捨てようとしたこともなかった。
 マフィアを嫌い、殲滅を企てる少年に同調を覚える瞬間がないではなかった。
 ミルク皿を厳めしく見下ろしたすえに、綱吉は深く息を吸い込んだ。
「……?」水飲みボウルを顎で押して、ずりずりと近づく姿は異様である。骸が眉を顰めた。
「少しでも多く栄養と水分を取った方がいい。わかるだろ?」
「……わかりません」言い聞かせるように、骸が言った。
「それ以上、近寄らないでください」
「ダメだ。衰弱した上でそんな傷じゃ、本当に死んじゃうよ。このミルクはおまえが飲め」
「呑めるわけがないでしょう」
 犬皿を嘲って見下ろし、骸が顔を背けた。
「飲めよ。死ぬよりかマシだろ」
 言いながら、骸は命の死守よりもプライドの死守を選ぶだろうなと思った。が、そんなことは微塵もみせずに、綱吉はミルク皿を骸の鼻先まで持っていった。
「君は、何も考えずに人を侮辱するのが得意ですよね」
 頑なだった。当然のように、ついと再び顔をそらした。
「あんたのために言ってるんだけど」
「エゴですよ。君は、自分の満足のために語っている」
「否定しない。目の前で死なれたら目覚めが悪くてしょーがないだろ?」
「すぐ開き直る。ボンゴレのそういうところも虫唾が走りますね」
「あーいえばこういうなオマエ! ホラ、飲んで!」
 顎で皿をつつくが、骸は、青褪めた顔で天井を見上げるだけだ。
 その腹からは、依然として血が滲んでいた。綱吉が嘆いた声には同情も憐れみもなく、ただ悲しみだけがこもっていた。
「骸。おまえ、どうしてそうなんだよ」
 パチリとオッドアイが閉じられる。
 ひときわ、大きな深呼吸があった。そしてそれきりで骸は沈黙した。
「そーいう態度にでるなら、オレだって頑張るからな」怨み言のようにうめいた。
 発作的なセリフだった。眠れば、そのまま死んだっておかしくはない容態だというのに、澄ました顔のままで目を瞑った少年が許せなかった。薄目をあけて、骸が訝しがる。
 白液に波紋がひろがった。水面を舐めるのは綱吉である。
 やがて顔をあげた彼は、縛られた体をモゾモゾと前進させた。
「な。何を――、ぐっ?!」
「……――ッ」
 重なった唇から、ミルクがこぼれた。
 綱吉が苦しげに眉を顰める。忌々しげに己を見上げるオッドアイがあった。瞳だけで相手を射殺せるものがあるなら、まさに、コレだろう……、思いながらも、ブハッと噴いていた。
「っつ!」至近距離から顔面にミルクを浴びて、骸が奥歯を噛んだ。
「おまっ、口あけろよ! 呑ませられないじゃん!」
「誰が好きこのんで男なんかにディープキスされたいと思いますか!」
「オレだってヤダよ! でもおまえ、こうでもしないと呑まないだろー!」
 鼻筋をミルクがくだる。顎から、ポタポタと白液をたらす少年に綱吉が眉をしかめた。
「悲惨……。ぶっかけるつもりはなかったんだけど」
「……あとでベトベトしますよ、これは……」
 視線だけで明後日をみやる綱吉である、が。
 彼は再びミルクを舐めた。浴びせられる白眼視には気づかぬフリをして、先ほどと同じように、グイと唇を押し付ける。やはり骸は唇を開けようとしない。
(こ、この人はほんっとにどこまで意固地になれば気がすむんだよっ!)
 ガツ、と、少しばかり勢いをつけて綱吉が頭突きをした。
 少年はほとんど微動だにしなかったが、しかし、目を細めた。
「ほんっとにどこまで僕を追いつめれば気がすむんですか。あなたって人は」
 すらりとした小声が耳で拾われる。と、同時に、浅く重ねたままだった唇が舐められた。ビクリと綱吉が体を揺らす。それが合図だということはわかった。
「――――」ふたつの口が重なり、狭間から白い液体が滑り落ちていった。
 上下を繰りかえす喉仏を見届けて、綱吉は鼻腔から安堵の息をあげた。
「ん、……」絡めた舌をほどくと、骸が目で続きを促す。
 開き直りやすいのはどっちだと内心で毒づいたが、口に出せば面倒になるのは知っている。短く頷いて、三度、ミルクを舌先で掬った。
 そうして骸に与えた。骸からはミルクの甘ったるい香りがした。
(これこそ、本当に犬みたいじゃないか)答える声はない。眉を厳しく吊り上げたままキスを受ける骸を見ていると、同じことを考えているのではないかと、錯覚がした。




 次に地下室の扉があいて、立っていたのは雲雀恭弥だった。
「おはよう。元気にしてた?」
「まぁ、オレは……」
 どことなく威圧感が漂う佇まいに綱吉が後退りした。
 雲雀はブラウンのスーツに身を包み、背後に朝日を浴びていた。腕組をして、顎を尖らせたまま地下室を見回す。その、黒目のしたには大きなクマができていた。
「一晩かかったよ。バカだね。マヌケだねえ。六道なんかに足ひっぱられて、ボスがその醜態ってどーいうこと? 僕が殺してあげてもいいんだけど」
 頬には返り血がついていたりする。真っ青になって、綱吉がもんどりをうった。
「ひ、ヒバリさん。骸がそこにいるよっ」
「あー、そう。そいつが捕獲できたのは収穫だね。でもだから何」
「ぎゃああああ!!」かざされたトンファーは、躊躇いもなく振り下ろされた。
 別の四隅で体を横たえるのは骸だ。空のミルク皿を傍らにおいて、薄目をあけてボンゴレとそのボディガードとが喧騒をたてるのを眺めていた。
「今回こそ懲罰室行きだよ! 僕がみっちり鍛えてあげる!」
「か、勘弁してくださ……っ、死ぬ! ほんと死ぬ!」
 獄寺が駆けつけるまで暴行が続いたという。
 が、ヒバリが運転する車に乗せられたところで、ふと綱吉が気がついた。骸は別の車に乗せられていた。そもそも、傷の治療があるので行き先も違うのであるが。少年の指先は、所在なさげに自らの唇を撫でた。
「あー……。やばい、ファーストキスだった」
「は?」運転席から、ヒバリが振り向いた。
 ――病室に殴りこみにいったとか、医者が半殺しにされたとか、脱走者がでたとか、そういう話を聞いたのは翌日のことである。









おわり

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06.04.03