悪魔の恋情





 

 

 

 敵対組織が多い。
 ファミリーの新人には特に注意が必要だ。
 スキあらばオレを殺そうとしてるやつもいる。そういうことを知ってるし、注意を怠らないようにしている。オレはそういうふうに教育されてきた。リボーンの手によって。
 けれど、不測の事態というのは、予測ができないからフソクっていうのだ。
 洗われながら横たわって、どれくらい経った頃だろう。
 路地裏に足音が響いた――。男が一人、オレを覗き込んでいた。
 両膝に手のひらをつけて、屈みこんでジィと見下ろす。月明かりが、青みがかったその頭髪をぬらしていた。黒塗りのスーツも銀に濡れている。雨雲の隙間から月が顔を見せていた。真っ二つに割れた月で、半分が完全に隠されている。月明かりのなかに落ちてくる雨粒は、パラパラとしているから、ひとつひとつが程よく銀色を反射して美しかった。
 雨なのに半分にかけた月が見えるなんて。光の粒が振っているだなんて。死ぬには、なんて、
「おあつらえ向きの舞台ですね」
 伸びた指が、額にへばりついた前髪をすくった。
「……オレを助けたのは、あんたか?」
「違いますよ。君を担いでた大男。円形ハゲのあるやつ」
「ペッツェが? ペッツェはどこに」
 骸が首を振った。沈痛な表情をするでもなく、ただ、淡々と。
 短い沈黙のあいだで二度ほど唇の開け閉めをしたが、それが骸にとってどういう意味があるのかオレにはわからない。毛筋から伝った雨水が、唇の内側に垂れていくのが見えた。
 ぺろりと唇を舐めると、それは、ニィッと意地悪くうごめいた。
「君を置いて逃げました」
 ――骸はいつもこうだ。
 ワザと、オレが傷つく言葉を選ぶ。
「ちがうだろ……。ペッツェ……、おとりに」
 腹に力をいれると、鈍い痛みがこめかみに集まった。
 苦笑しながら骸がオレの両手を抑えた。雨で冷えたコンクリートに押さえつけられたが、下半身は熱くただれていた。部下二人の血をたっぷり浴びて、それが、雨と一緒になって衣服のなかに潜ってくるのだ。骸の顔が逆さまだ。うえから覗き込んでくる彼の背後から雨が降り注いで、そのずっと上には半径の銀縁。骸と真正面から目を合わせると、どうしてか、コイツに殺されて生涯を終えるんだろうなという気になる。骸はそういう目をしていた。
「楽になりますか? 僕にすべてを任せてくれれば、お望みのとおりにしてあげますよ」
 今すぐ殺してあげる。そう言わんばかりに、瞳の奥に宇宙を称えて。
「…………オレたちの情報、リークしたの……、あんた?」
「……。知ってどうするんです? 怒りますか?」
「軽蔑する」
 奥歯が、自然とギリと噛み合わさった。
 獄寺君もいなくて、珍しく人手が足りない朝だった。
 昼過ぎに急ぎの取引きが入った。幹部じゃないと会わないと言うから、オレが出向くことにして……、いつものボディガードと、銃の扱いが素晴らしいという新人をひとり連れた。攻撃がはじまったタイミングは絶妙だった。扉を開けたとたんにボディガードの一人がやられた。
 そして、後退るオレの背中には銃口が刺さる。新人はニヤニヤと笑っていた。
 出来すぎた話だ。新人には当日になって同行を告げたのだ。誰か、橋渡しになる人間がいなければ奇襲は成功しなかった。いや、まだ成功とはいえな、かった。
 オレが生きてる。今から殺されるのかもしれないけれど。
 骸は、左右で色の違う瞳を上向けた。
 オレの右足の、腿にあいた風穴を見つめた。新人に打ち抜かれたものだ……、狙いが逸れたのは、引鉄を引ききる前に、膝蹴りを叩き込んだからだ。
 彼はニコリと温和に微笑んだ。そして平然と言い捨てる。
「僕もあなたを軽蔑してる。意味がないですね」
「そりゃ、けっこうなことで……」
「ええ。そうですね。おそろいです」
 ゆっくりした口調だ。今のところ、殺意はない。
 鼻と鼻が触れ合うほどの距離に顔があった。
 近すぎて、あと痛みと疲労のせいとで、目の焦点が合わない。骸に遮られて、雨粒も感じなければ月光も見えない。ただ、人形みたいに透けた肌色が一面に広がっている。
 視界の外枠で、骸が動く気配がした。
 石畳に縫い付けられたままの右腕の指に、体温のないものが絡んでいた。
 骸の指かと思った。けれど、違った。ヌルリとしていて、ほのかに。温もりがある。……人間の、指だ。切断された断面を、骸が、くすくすと笑いながら手のひらに擦りつけてきた。逃げようとする五指を自らの五指で縫い付けて、手のひらの中央を使ってグイグイと押し付けてくる。グラリと骸の影が傾いだ。オレの視界が傾いだからだ。途方もない熱が腹の底からあふれて、涙がでそうだった。
 この男は本当にオレをダメにしたいらしい。声が震えていた。
「ペッツェを殺したの、あんた?」
「ええ。でも、追っ手もすべて殺してあげましたよ。君に穴を穿った愚か者も。ああ、本当に君を見捨てた方のボディガードもね。すべてキレイにしてきました」
「どこが……」先が言葉にならなかった。
 泣き声に変わりそうで、歯を食い縛る。
「人の中身をいっしゅんで洗浄するのに、死はかくも有益だと思いませんか」
 骸が楽しげに吐息を吐いて、ギュウウと手のひらを握った。
 オレの手のひらとの隙間に、亡骸をはさんで。
「やめて……」 指の隙間にいりこんだ骸の指がどうしようもなく汚らわしかった。
「オレがあんたの言ってること、一ミリでも同調するときがあると思うんですか」
 ピクリと指先が痙攣をした。力が抜けた一瞬を見て、右手を持ち上げる。
 せめて、穢れた児戯には抗いたかった。オレの言動をどう取ったのか、骸は、沈黙を挟んだ末にクッと喉を鳴らした。名残惜しげにオレの拳を撫でる指先を感じた。そろりと下りてきた舌先が、唇を舐めた。その動きに背筋が粟立った。様子を窺うような。
 まるで、猫が主人の機嫌を伺うような静かなものだった。
「…………」 六道骸というのは、何を考えているのか、わからない。
 敵対組織が多いことは知ってるし、スキあらば殺そうとしているヤツがいることも知ってる。
 でも、もっとも。最も手強く残忍で、注意するべき敵は、欄外にあることもオレは知ってるのだ。
 そいつは組織じゃなくて個人だ。時には、互いに援助もするし金銭の取引きもする。彼はスキを狙うこともしない。ただ、背筋をしゃんと伸ばして暗がりに佇んでる。そうやってオレを眺めてる。
「拒むんですか……?」睦言の甘さを孕んだ問いかけだった。
 無言で、動かないままでいると、骸が鼻腔でため息をついた。
 ふうっとした空気の流れが、オレの鼻にも当たる。
「問いかけに問いかけで応えるのは、礼儀に反すると思いますよ」
「ッつ!」いつの間にか骸の両腕が首に絡んでいた。
 ギリギリと爪をたてて、ミミズ状の腫れを刻み付けていく。
 思わず開いた唇の、すきま、から、舌が潜り込んだ。やわらかく歯列をなぞる。優しい舌使いがもたらすものとは、真逆のものを、首をぐるりと一周する爪先が植え付けていた。首から上が、焼ける。そんな錯覚がひどくて、首を絞める爪がなければ意識を失ってる。
 首に刻まれた赤線から早くも血が滲みはじめていた。
 きれいに傷つけらた一本線は、まるで首輪のようにも見えただろう。骸は楽しげに喉を鳴らした。音がしたわけではなかった。重なった舌から、喉で笑う振動が伝わってきたのだった。
「…………、……」
 するりと骸が離れた。
 唐突だった。路地裏の入り口を見据える瞳が、わずかに煌めいている。
 再び光の雫が顔面を叩いた。何か、聞こえいてるのかもしれない――。
 けれど耳鳴りが酷い。息切れが酷い。首の痛みが酷い。呼吸があがっているのは、キスによる酸素不足ではなくて、右足の風穴がひどく軋むからだ。
 ぐったりと弛緩するオレを見下ろす二つ目がある。肩を起こされた。
「君が乗ってきた車は? この近くでしょう?」
「……、……七番街の……、イッルーネ」
「ああ。君たちがよく使ってるとこですか。鍵は」
 どうして知ってるんだ。とは、問う気力がなかった。
 何度が下に向けて顎をしゃくると、最初は眉を顰めた骸も合点した。
 スーツの前をあけて、左の内ポケットへと指を突き入れる。ちゃらっと鳴って、神社のお守りと一緒に車のキィが引き出された。骸が苦く口角を引き上げた。日本のお守りを持ってたことに対してか、交通安全の文字に対してか、あるいは、そんなのを持っておきながら死にかけるオレを思ってか。
 骸が何を愉悦と感じているのか、オレには、よくわからないことのが多いので検討がつかない。
 低くうめいた後で、背中に担がれていた。日本式に言えばおんぶである。
 彼は迷いのない足取りで路地裏の奥へと向かった。この先をどう行けば七番街に辿り付けるというのか、オレにはわからない。そもそも、この状況で、命拾いができているのかすらわからない。
「けっこうおあつらえ向きの舞台だと思ったんですけど……」
 銀色に光る雨粒。その狭間に細身のからだを押し込む。聞こえた。
「ダメですね。悲壮が足りない」
 硬く起立した音色の周辺にあるのは怒りとも悲しみとも受け取れた。
 肩越しに骸が振りかえる。間近に迫るオッドアイのまなことオレとの、間にあるのは雨粒だ。赤い目と青い目に銀が反射して、その丸の中で、きらきら瞬いていた。
 噛みしめるように、何かを疑うように、骸が続けた。
「こんな薄汚い舞台じゃ、僕の愛は伝わらないでしょう?」
 喉が震えた。言葉にならないうめきが、胃袋のすぐ上をくすぐっている。
 気にした様子もなく、オッドアイだけが上をみた。いっそう、瞳がきらめいていく。
「もっと最高の舞台を整えてから……、そう、そうしたら殺してあげますよ。愛されていると、さいっっこうに実感する舞台で。ねえ、綱吉くん、誰が死ねば――」
「……」背広の肩をギュウと掴むと、再び振り返った。
 純粋な、嬉しげな微笑みがあった。
「今は、ボンゴレとお呼びしたほうがいいですか?」
 ちがう。そうじゃない。
「心配しなくても、大丈夫ですよ。殺しますから」
 両目の奥で銀色が踊ってる。宇宙の一片が映っていた。
「君を世界でいちばん幸せにしてみせます」
「……、おまえ、殺したい」
「やれるものならどうぞ」
 勝ち誇って、骸が言った。









おわり

>>>もどる


 

 

 

 

 



06.03.30