頬に濡らす 後篇


 


 ボンゴレが本家としている屋敷をでて、骸は背後を振り返った。
  門の前でリボーンが憎悪に顔を歪めている。視線はまっすぐに骸を睨みつけていた。クスリと微笑む姿は、彼を知らない者ならば惚れ惚れとする好青年そのものだった。骸は、無邪気を装って勢い好く手を振った。
  当然のように無視をされた。上機嫌に、何度も頷く。
「こちらとて、転んでタダで起き上がる性格ではないんですよ」
  歩き続け、リボーンはおろか屋敷すら見えなくなったところで踵を返す。
  屋敷の方角だが、今までとは違う道を進んだ。屋敷の裏路地に面した廃屋。その前で、細身の男が自身より三倍も大きい大男を蹴りつけていた。
「まだやってるんですか」
  骸は呆れた声をかけた。
「だってぇ。コイツ、笑ったんですよォ!」
「ゴリラチャンネルに?」
「オレはそんなにブサイくじゃねえーってさァ! ひでえーよなぁ」
  地べたに伏した男は四角い骨格に浅黒い肌、毛むくじゃらの腕とまるでゴリラのような顔立ちをしていた。鼻から血をだし口角を粟立たせ、ぐったりとしている。骸は冷ややかに見下ろし、廃屋のまえで腰を降ろす千種へと目をやった。
「首尾はどうですか」
  彼が向き合うノートパソコン。
  そのディスプレイを覗き込み、満足げに笑った。
「ああ、ちゃんと撮れてますね」
  数枚の書類がクローズアップされて全面に映し出されていた。
  彼らは廃屋の屋上にビデオカメラを取り付けたのだ。デスクは角度を調整して窓から見下ろせないようになっていたのだろう、映ってはいないが、骸が窓に近づけた分の書類はきっちりと映像として残っている。充分な価値があった。
「もう少し時間をかかれば、もっと精密に映しだせる」
「それはそれは。頼みましたよ」
「はい」
  穏やかな声音の奥で、ドカ、バス、と無残な音が響く。
  千種はその間もディスプレイから目を反らすことがなかった。
  やがて立ち上がり、カメラの配線を辿って屋上へと向かう。見送った後で、骸は振り向いた。男は白目を剥き、犬は襟首を捕まえたままブンブンと振り回していた。
「ベドレクファミリーの居心地はどうですか」
「最悪! あーと、えーとカッチャニ? あいつ本人が行っててもどうせ殺されてたんじゃねーんですかァ。相手方は毒盛ってそーですよ! 前のメシは舌がひりひりしたれす!」
「くふふ。次はそこのゴミとすり替わるんですよ。ベドレクも信頼するファミリーには毒など盛らないでしょうから……。楽しんでください」
「ヘヘヘッ。そいで、信頼する部下にヤラれちまう、と」
「さァ。それはまだ決めてませんね」
  ニコニコとした笑顔のままで骸は首を傾げた。
  犬は渾身の左アッパーを男に見舞う。ふっ飛んだ末にピクリともしなくなると、服を引っぺがしにかかった。階段に腰かけた骸は、帰ってきた千種に片手をあげる。
「そういえば、ヒバリキョウヤの居所はわかりましたか?」
「いえ。尻尾がつかめない。よっぽど周到に動いてるようです」
「でしょーねー。まったく面倒くさい。あれが、恐らくボンゴレの異様な情報収集能力の中枢を担ってると思うんですがねー」
「見つけたら殺すつもりで?」
  千種は顔色も変えずに、骸も見ずにボストンバックにカメラをつめこむ。
  畳んだノートパソコンはクッション剤で梱包した。神経質なまでの気遣いを感慨もなく眺め、骸は首を振る。
  赤い瞳がチラと瞬いた。(とりあえず気に喰わないので居場所だけでも把握しておきたいんですが。もしもに備えて)「それも現状では決めてません」
  内心はおくびにもださずに普段の笑顔を向けた。
「骸さぁーん、柿ピー! これで見えっスか?!」
  ぴょんと飛び出た犬は、すでにチャンネルを使用し別人へと化けていた。
  ゴリラのような顔立ち。骸は笑顔で頷き、ちょいちょいと手招きした。拳をグーで固めている。
「なかなかの出来です。一発くわえれば顔が崩れて尚いいですね」
「ウッ。骸さん、殴る気ですねっ?! イヤっすよマジで痛いんですもん! 自分で殴ったほーがマシってもんですゥ〜ッ」
「あ、そうですか。ではどうぞ」
「俺が殴ろうか」
「柿ピーじゃ腕力なくて顔ゆがまな〜い」
「…………」
  ぷっ、と吹きだした。反応が聞けて満足したらしい犬がアニマルチャンネルを解いた。
  骸を見つめる千種の目は据わっていたが、すぐに思い直したように咳払いをする。
「……この前の。麻薬密輸ルートは把握しました。いつでも脅しをかけられます」
「そうですか。思ったよりも速いですね」しばし沈黙した後、付け加えた。「最近では一番の稼ぎになりそうですね。二人とも、気合入れてくださいよ」
「わかってるってぇ!」
「はい!」
  千種はボストンバックを肩にかけた。
  その後ろで素っ裸となったゴリラ男を犬が担ぎ上げる。
  路地の奥に車を止めてある。道は狭いので一人づつ入るのだが、犬が最初に入った。たった今、一つの生命が枯れていくこととは関係なしに晴れやかな風が吹く。
  そうしたことに感慨をもつ男ではなかったが、骸は足を止めた。
  ポツと、頬を濡らしたものを指で辿った。
「……雨ですか?」
  空はきれいに晴れている。
  顎を上向けて、そこで硬直した。
  ボンゴレ。屋敷の屋上で影が差していた。
  逆光で誰かはわからない。が、非常によく知る彼とおなじ髪型をしている。動けないでいる内に影は引っ込み、骸は聞こえるはずのない足音を聞いた気になっていた。走りながら遠ざかる足音だ。
(ツナヨシ……? まさか。部屋からでる理由が)
  ――ない、とは言い切れない。
  骸には自覚があった。ツナは自分を好いている。
  恋は人を狂わせる。常にない行動をするのが標準となる。
  特に、男の言動は弄ぶかのようで真偽のほどが図れない。骸はこれをも自覚し、しかし訂正する気も起こらずに青年を翻弄しつづけている。冷静な部分があの報告書の存在を訴えた。どこまで事実がかかれているのか、わかったものではない。けれども冷ややかな声が縮んでいく。指先の濡れた感触がすべての感覚を支配した。
「泣いているのでしょうか」と、気がつけば呟いていた。
「骸さん?」
  脇をすり抜けた千種が眉を顰める。
  手をふって先を行かせ、だが骸は再び屋敷を振り向いた。
  影はない。太陽の光を正面から浴び、ボンゴレファミリーの総本山は堂々と佇んでいる。眩さに目の奥が焦げ付く錯覚がした。目を窄めれば視界が細くなる。濡れた指先がピリリと痛んでいた。
(……、僕がこれほど歪む前に会えていれば)
  彼のマフィア入りをとめることも、あるいは共にマフィアの一員となる道を選択できたのだろうか。
  少年は踵を返した。細い一本道は薄暗く、ドブ臭い。
(あるいは戯れに思いを告げることがなければ?)
  ツナがそれに応えたりしなければ。うっすらと考えたところで、骸は頭を振った。
  この点においては覆さないと、青年が了承をしたことに関しては覆さないと。彼が自分のものだという一点においては、何があっても覆さないと誓った。
  遠い昔、少年の乗った飛行機を見送りながら。
  彼の本質が光るものだとしたら、骸の本質は血濡れの泉に沈んで這い上がることのない泥のかたまりだった。『生』を強烈に実感できる瞬間が、愛する者の隣にいるときでないというのは骸にとっての不幸だった。今までの報いすべてが降りかかったかのような、最悪の呪いのように思える日もあった。(あなたにとってもきっと不幸なんでしょうね) 
  日本で。別れの日に約束を交わした。沢田綱吉は六道骸のものだと。
  六道骸は沢田綱吉のものだと。彼は約束を守っている。
  青年には気づかれないながらも、観察をつづける骸は自信をもって断言できた。
(約束を持ちかけたはずの僕が裏切ってるのが難点ですか。 しかしですね)
「もう、こうとしか生きられません」
  誰にともなく呟き、路地を抜けた。
  千種が運転席に座り、犬がトランクに男を詰め込んでいた。
  歩み寄る歩調は速い。助手席をあければ千種のボストンバックがある。
  死体と一緒に置きたくないと言われ、骸は薄く笑んでバックを後部座席へ押しやった。シートベルトをして間もなく、犬も定位置につく。
  運転席と助手席の間から顔をだしイヌのように舌を突き出し、叫んだ。
「はっしィ〜ん!」
  ボンゴレの屋敷は、街並みから頭一つ分ほど飛び出ている。
  透かすように目を細めるが、想い人が見えるわけもなく。
  骸は感情の一片も感じさせずに言い捨てた。
「頃合ですからカッツェーニの死体を川に浮かせましょう。ゴリラは山奥に捨てます」
  指先も頬もすでに乾いていた。瞳を閉じればすべてが遮断された。
「獣どもが貪り尽くしてくれますよ」

05.11.3

 

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