魔王骸×ツナ


「不運もひとつの特出した才能である――、か」
 言論集を片手に、少年は、両目を窄めて嘆きの面持ちをしている。
 窓硝子から、陽光が舞い降りて、埃っぽい空気をきらきら光らせている。羊皮紙の表を撫でる。
「無責任極まりない発言だよ」
「それは偉大な先駆者に対する愚痴かな、沢田綱吉」
 ガラリと、教室の戸を開ける人間がいた。
 濡れたカラスの髪色に、黒目。透き通った白い肌。悪魔の資質を兼ね揃えた若き天才の名を綱吉は引き攣りながら答える。
「い、いいえ。ヒバリ先生」
「フン」
 鼻を鳴らして、雲雀恭弥は綱吉に突きつけた指揮棒を引っこめた。
 狭い教室にふたりきりである。
 十分後には、公開の召還実習がある。そのための練習に生徒は呼び出しを喰らった。沢田綱吉。――並盛魔法中学校、一年A組。――教育員、雲雀恭弥。所属付きの名札をローブの右胸につけて、綱吉は居心地悪げに起立する。
「いいかい。僕は君ほどの落ちこぼれを見たことがない」
「そ……それはどうも」
「褒めてない」
 恭弥はズケズケと真実を言うタイプの指導者である。
 スパルタ教育がモットーだが、腕は確か。成長を望む生徒はこぞって恭弥の指導を乞う。二十代前半という年齢の若さが恭弥のカリスマをさらに強化する。
 雲雀教師は、大股で黒板の前を往復する。
「今のところ、復唱して」
「……『不運もひとつの特出した才能である』……」
(ちぇ。何でタイミングよく戻ってくるんだヒバリ先生。これも天才のセンスなのかな? タイミング良く現れることができる才能。もしくは強運。オレにゃーないなぁ)
 恭弥は窓辺につくとブツブツ呟いた。
「他でもないリボーンの頼みだったから君の教育を引き受けたけど……。テスト前に生徒の不出来のせいで胃が痛くなるなんて……初めてだよ」
「オレ、あだ名がダメツナですから」
 ダメだダメだ、と、言われることに慣れているので、綱吉はケロリとした顔だ。
「あだ名のせいにするんじゃない」
 だが恭弥は突っぱねる。
 指揮棒を黒板に振りかざした。
「ここにも書くんだ。不運もひとつの特出した才能である! 君に足りないのは自信だ! やる気だ! 困難を克服しようとする精神力だ!」
「……そゆのがない人間は、いくら振り絞っても……」
「口答えをするな!」
 恭弥が眉目を吊り上げる。ついに、彼の魔法武器であるトンファーまで取りだしたので、綱吉はしぶしぶと黒板まで歩いた。
 チョークを片手に、偉人の言論を書き出す。後ろで雲雀恭弥が朗々と叫ぶ。
「いいか、魂に刻みつけるんだ。もはやそれしかない、不幸は才能だ! 立派なひとつの才能だ! 魂を洗脳しろ!」
「……先生、なんだか言論が非人道的です……」
「不出来なクセに人権を主張するな!」
「でも獄寺くんたちは」
「不出来なクセに一人前と同じ権利を要求するな!!」
 綱吉が黙る。こめかみが、神経質にヒクリと動いたのを見て、恭弥が歩み寄った。
「悔しいかい。その思いをバネにするんだ!」
「……別に……悔しくありませ、んッ」
 後頭部に張り手が飛んだ。雲雀教師が眉間を深くしわ寄せる。
「だからダメツナ呼ばわりされるんだよ君は!」
「だ、ダメツナですもん……」
「あと百回だ。書け。時間ギリギリまで書け!」
「こ、こんなことより、召還の練習した方が――」
「ゴブリンばっか呼び出すその手腕に僕は飽き飽きしてるんだ! とにかく、書け! 今の君に必要なのは魂の洗脳だ!」
「洗脳って」
 一言多いとはわかっているが、うめく綱吉である。
 こうまでコケにされたら、ダメツナといえども卑屈な気分になるのだ。雲雀恭弥は教育の猛襲を緩める気配もなく黒板を叩いている――。
『不幸もひとつの特出した才能である』
 偉人の言葉を書き写す。ホントにこんなのためになるんかいなと、綱吉は呆れた目つきをした。
(オレのダメっぷりなんて筋金入りだよ。幼稚園かな。魔法花いちもんめでは誰もオレを欲しがらなかった。あの頃からダメツナだったんだ。くそう。リボーンが悪いんだ。こんな、エリートばっか集まるガッコにオレをいれて)
「手が止まってる!」
「あた!」
 後頭部に、またもや張り手が飛んだ。

 ざわり、ざわり。コロシアムがざわめく。通常は運動場だが、今は、一年生のためのテスト会場となっていた。
 コロシアムには特設ステージが設置されていて、採点ボードを手にした教師が囲む。観客席には、順番待ちをしている同級生。見物にきた上級生も多く居る。
 実質、このテストが、新入生達をお披露目する最初の機会だ。
 そして今、綱吉はたった一人でステージにいる。
(い、胃がァ、痛い〜〜〜〜っっ)
 半泣き顔でチョークを走らせる。自分の周囲に、二重の円陣を書いた。見守る教師の一人がボードにメモを取る。
「随分とシンプルな魔法陣を指導されたんですね、雲雀先生」
「……シンプルなものは強力だからね……」
 雲雀恭弥は、青空に眼球を向けてしらっとした顔だ。
 沢田綱吉が魔力を込めて書けるのはアレしかない、と、真実は口にしたくない様子である。
 完成した円陣の真上に立つと、綱吉は古書を手に広げる。図書館から借りてきたマニュアル本である。『たのしい召還術。〜正規の手順とその効力〜』。
「ええ……と……。では、オレは、森のピクシーさんを呼び出します」
 ざわ、と、さざ波のような話し声がする。
「ピクシー? 妖精? 小学生レベルだぞ」
「あれ、落ちこぼれ特待生の沢田じゃないか? 噂の」
「……六十九番、沢田綱吉。実技、はじめます」
(アー。これでオレの中学生ライフ終わりかなぁ。トホホだよ)
 雲雀恭弥の方は怖くて見ることができなかった。
(とっとと終わらせよ。傷口が深くなる前にサラッとサラッと)
 目の前の空間に向けて、手のひらを差しだした。
 ステージの中央には、教師達の手によって複雑な巨大魔法陣が描いてある。新入生は、この大がかりな道具を使って、各自の限界に挑んでみせるのだ。
(ピクシーでてこい。妖精さん!)
 ――ちなみに、綱吉の『限界』は本当に森のピクシーだったりする。できないものは、仕方ないのだ。
 瞼を半分ほど閉じる。意識の練成を開始した。
 陣を構成するチョークが青い発光をはじめる。風の渦が生まれて壇上を吹雪かせた。円陣に守られている綱吉にはそよ風程度の風力しか届かない。
(あ――、あぁああ、この結果が悪すぎて明日からクラスの除け者になったらどうしよ。寮にヒキこもるか?)
 ふるえる声で、宣誓した。
「我が声を聞け!」
 軽くめくれた手元の羊皮紙に目を凝らす。
(? なんか、読みづらいな)
「ひと……を、離れし。魔性――の、人、よ。去りし同胞よ。悪夢の海原から舞い降りて、我らに贖罪の機会を与えよ」
「!」
 雲雀恭弥が顔色を変えた。教師達が騒ぎ出す。
「あれ、悪魔召還のことばですよ!」
「彼が持ってるのは禁書じゃないか?!」
「……棚を間違えたんだ……。その上、持ち出し禁止の本をなぜだか持ち出せた不運……。そういえば昨日は管理システムが故障でダウンした時間があったな。一分くらいだけど」」
 ぶつぶつと呻いて、雲雀教師はこぶしを握る。首の皮が繋がった気がするのだった。
 場外の騒ぎに気付かずに、綱吉は必死になって魔法を続けている。
「……御魂の同調を認める……。在りし日の大地はここにあり……? 古き人達よ」
(? もう読めないや。なんで旧書体ばっかりなんだ。あ。借りるときに、発行日の確認するの忘れてた)
 しかし、この場でいきなり奥付を確認するワケにはいかない。
(……こりゃ失敗だな! もう終わらせちゃえ)
 綱吉は、こぶしにした右手を古書にかざした。ゆっくりと五本指を広げて、召還魔法のクライマックスを目指す。
 見たことがない赤黒の炎が手のひらに生まれた。
 禍々しさは一瞬で消えて、綱吉がよく使う、真珠のパール色をした光に変わる。
(? なんの干渉だ?)
 深くは気にせず、読めないマニュアルから顔をあげる。魔法使い見習いとして、自力で覚えたのはたった一節。
 どうせなら最後にそれを叫びたい! 朗々として声を張りあげた。
「いざ来たれ、魔性!」
 ぼうん!
 煙玉が広がるように、赤黒い光が、コロシアムに蔓延した。
 ――綱吉にだって異変を感知できる緊急事態だった。大気中の酸素が急速に薄くなった息苦しさと、肩にのしかかる鋼鉄の重石に全身がわななく。
(んなあ?! な、なにごと?!)
 魔法陣から衝撃波が生じて、ローブのすそや古書のページをはためかせる。円陣結界も通過する烈しさだ。
 綱吉は唖然とした。
 青褪めながら、ステージの中心に目を凝らす。
「――っ?! ぎゃ、ぎゃあああああ?!!」
 魂の底から大絶叫をあげた。
「?」と、その存在も綱吉を凝らしみたところらしかった。
 巨大なイスに腰掛けた黒衣の男性である。
 イスは、後ろに蛇を生やした奇妙な一品で、それ自体が意志を持っているかのようだ。男の漆黒をなめしたマントが大きくはためく。人骨の頭をつけた肘置きに、肘を置いて、右手を顔の近くに持ちあげている。不審がるような仕草だ。
「ニンゲン?」
 小さく呟いた声には、不思議な、多重音声のような響きがあった。
「?! ?! ?!」
 綱吉は男性の容姿に視線を釘付けにされていた。
 長く伸ばした爪は黒く光り、耳はピンと尖る。ブルーとブラックを混ぜた頭髪の色。細長の瞳は、右が血の色で左が海の色。
 そして――。
 頭部には雄々しい山羊の角。
 後ろに反り返った禍々しいシンボルが、左右に二本、生えている。手ですっぽりと掴めないほどの巨大さで、魔力的な漲りが見て取れる。
「う……ウソォッ?!」
 叫び声が戦慄で凍りつく。いやな予感に体をずぐんと突きあげられた。
 巨大な山羊の角――、男が魔類の一種なのは間違いないが、だが、その角は、今世ではただ一人しかシンボルにしていない筈だ。
 い、一応、念のために。自分に言い聞かせて、綱吉は声を絞りだした。両膝はガクガク動く。
「ぴ……ぴくしーですか?」
「この僕が?」
 鉛の重さと、鉄を打ち合わせた音色を持つ響きだ。
 男性は、頬杖をついて、血と海の輝きを秘めた双眼をコロシアムに向ける。
「召還術?」
「え、ええっと」
「呼ばれたのなら応えましょうかね」
「ぁ、お、お願いします」
 引き攣りながらも、綱吉が頭を下げる。
 男性は、妖艶な手つきで、黒爪を自らの胸にトンと宛てた。
「六道骸と昔は名前がありました。今の君達の世代からすると、黒き蛇王(ブラッドブラック・アグエ)の名に親しみが――」
 口上が終わるか、終わらないかの内だった。
「ぎぃぎゃぁああぁぁああああ?!」
 観客席の学生が、パニックを起こした。全員にすぐさま感染する。
「沢田が!! 覇王を呼び出した!」
「アグエだ! こ、今世紀が終わるのかああ?!」
「ぃやあああああぁあああぁああ!」
 悲鳴がコロシアムを埋めつくす。後ろによろめきながら、綱吉はことばの響きを噛みしめた。
「黒き蛇王(ブラッドブラック・アグエ)……だぁ……?!」
(と……当代の魔界の王様の通り名じゃんか……)
 童話にも出てくる有名人だ。気難しく、狡猾で、みだらな放蕩行為を統べる。人類の敵だ。
 いつの間にか、蛇王の頭上に禍々しい色の大渦がある。嵐がくるのだ。ただ一人、混乱の最中にも粛々とした拍手を送る人間はいた。雲雀恭弥。
「さすがだ。綱吉、不幸を味方にしたね」
 彼は、冷や汗と共に、微かな笑みを浮かべていた。
「苦労が報われた気がするよ。魔王を召還するなんて、人類史に残る珍事件だ」
 ひらりっと、手のひらを垂直に立てた。
「それじゃ、元気でね!」
「ひ、ヒバリ先生ぃいいい〜〜〜〜っ?!」
「ンなもん相手にしたら死ぬよ!」
「あぁっ?!」
 気付けば、二百人ほどの人間が逃げだした後だった。さすがは魔法使いで、魔力的な緊急事態に対する防衛反応はピカイチな連中ばかりが揃っている。薄情とも言う。
「いつの世も人間の醜さは変わらない」
 魔王は坐したまま満足げにくすくすとしている。
 ピシャアン! 
 落雷が観客席の一角を破壊する。
「……ぜ、絶望……」
 思わず呻いてしまう。魔王がすっくと立ちあがる。マントが垂直にはためくと、引き締まった細躰の輪郭が雷鳴に光った。
「俗世への降臨など、何百年ぶりか。久方ぶりに滅びの美酒を授けてあげるとしましょうかね――何万の星がグラスへの口付けを臨みますかね? ククッ」
 古書をめくりはじめた綱吉に、魔王のオッドアイが留まる。
「送り返す気で? 久々のシャバだって言ってるでしょう」
「うわっ!」
 小さな落雷が足元を穿つ。
 飛び退いたが、だがすぐに円陣の中だと思い出した。円をでない限りは、まだ、安全だと自分に言い聞かせる。
(ま、魔王といえども今は魔法使いに召還された身だ! な、なんでオレが呼び出せたのが不思議でたまんないけど――ッ、結界には入ってこれないはず!)
 召還対象が、術者に殺意を抱くケースを想定するが故の防御円陣だ。魔法使いが召還術を使うための初歩中の初歩である。
 綱吉は必死になって考えを巡らせる。
 どうにかして帰って貰わねばならないと思った。
「ま、間違えて呼び出したんで、す。どーかお戻りいただけませんか! 魔王様!」
「……見たところ、君が、我が肉体をこの場に喚んだようですが……。強い呼び声を刹那に感じはしましたが。今はその片鱗も何にも残っておりませんね。これはどうしたことでしょうか」
「戻ってください、お願いします!」
 神に祈るように手を合わせる。魔王が、単に、不思議そうな顔をしているだけなのを見てコレでは足りないと悟る。
 膝を折ると、綱吉は指をそろえて深々と頭を下げた。故郷に伝わる究極の謝罪法『土下座』である。
「お願いします、魔王サマ!」
「……初対面の召還相手に対して、いきなりそこまで卑屈になっていいものでしたっけ、魔法使いって」
 複雑そうに黒き蛇王が唸る。しかしその双眼は悪戯っぽく色を変じる。
「僕を呼び出せたとはすなわち、多少は心に腐りかけの蜘蛛を棲ませる人間である。僕を召還した褒美をあげましょう。君の望みは? 沢田綱吉」
「えっ……オレの名前を、なんで」
「書いてあります」
 ほれ、と、魔王が自分の右胸を手で抑えてみせる。
 反射的に綱吉も胸を抑えた。名札をつけっ放しなのだった。慌ててピンを外そうとすると魔王が呆れた空笑いをこぼす。
「貫禄の足らない見習いですね」
「! うわっ、く、くるな」
「来るな? 敬語をついに抜かしましたね? 我をなんと心得ているんだ?」
「だぁあああ?! ごッ、ごめんなさァい!」
(意外に陰湿だなコイツ?!)
 意外もなにも、魔王の性格が歪んでるのは世界の理のひとつかもしれないが――、円陣に歩み寄った彼は、ごくさりげなく腕を伸ばす。
 綱吉の二の腕を鷲掴みにする。
 ローブに食い込む黒爪の感触に、ギョッとして両目を剥いた。
「ぼ、防御円陣、がっ?!」
「君レベルの男は何人も見てきたし幾度も葬ってきた……魔界でね」
 どこかで聞いたような台詞にツッコミを入れる間もなく、
「だぁっ?!」
 円陣を破られた衝撃に全身を震わせた。
 バチン! チョークの粉がはじけ飛ぶ。鋭い痛みは皮膚の内側に跳ね返ってきて脳髄を灼く。蹲ると、綱吉は首を折る。
「う。ぐ……。う」
 些細な破壊活動だが、黒き蛇王は笑みを深める。
 綱吉の頭部を妖しい手つきで撫でた。
「沢田綱吉。契約をはじめましょう。どうせこの世界が嫌いなのだろ? 破壊の手を貸してあげます」
 細腰を掴むと、肩に担ぐ。
 優美な所作で膝を屈伸させた――だけに、思えたが、一瞬の内にコロシアムのライトスタンドに着地した。学園を見渡せる高い場所だ。
「うわぁっ?! はっ、離してくださいっ」
 懸命に後ろをふりかえり、綱吉は脂汗を皮膚に滲ませる。
「ど、どーいうつもりなんですか! 帰ってくださいってば!!」
「見習い程度のザコに呼び出されて何もせずに帰れと? 蛇のアグエが! 僕をそこらの低級魔類といっしょにしてはいけませんね――」
「ンッ?! ぁ、やめっ、あ!」
 魔王の肩に載った腹部に灼熱が蠢く。
 罰の意味で魔力をぶつけられたらしい。脳裏に赤黒の炎のイメージが鮮烈に駆け抜けていって、痛みを残した。
(な、んて、熱量、だ。しかも邪悪極まりないタチだ!)
 ひどい胸焼け感に目眩が起こる。
 綱吉が言葉を失っている内に、魔王は手のひらをグラウンドにかざした。
「まずは、目の前にそびえる蟻の城から――」
 オッドアイが妖しく光る。巨大な火柱が噴き上がるのを感じて綱吉はヒッと目を瞑る。どおおん! 何度か、砲撃音がする。
(な――、なんて、こと。してるんだコイツは!)
 今更に、ぞくぞくと体の底から恐怖しながら見やれば、グラウンドの中心部はマグマ状に溶けていた。
 校舎からは火の手。悲鳴が聞こえる。死者が出たかはわからないが、やはり、さすがは魔法使いの集団ではある。ほうきで逃げたり、飛行魔法を使ったりと、各自が魔法を駆使して死に物狂いで避難している。遠くからだと、逃亡者が描いた放物線が、流星群の尾のように赤い空を覆って見える。
 尾を引いて逃げてゆく魔法使い達を見上げ、黒き蛇王が放笑する。
「くははははははははっ。はははっ。死ね、ザコ!」
 溶岩から吹きつけられる熱波にマントをはためかせ、ヴォンヴォンと警報サイレンが鳴り始めた中での放笑は、童話に描かれた魔王すらも生ぬるく感じさせるほど凶悪だ。
「ひ、い、タチ悪い魔王っ」
 わざと逃げ道を残し、人類の藻掻くさまを楽しんでいるようにも見えた。
「アリはどこだ?」
 蛇王がグラウンドに降り立った。綱吉はすぐさま暴れ出す。特に、こだわりもなく大地に降ろされた。
「君は僕が飽きた時に死ぬ。大人しくしていなさい」
「が、学校に何する気だ!」
 ニィ、と、薄い唇が甘美に歪む。
「人の営みには消滅が似合うと思いませんか?」
「やめろ!」
 声を張りあげた。マグマと化した一帯で熱風が荒む。
 まだ燃えていない校舎から、生徒や教師が顔をだしている。グラウンドの端に避難した人々も、空に避難した者も、誰もが息を潜める。
 黒き蛇王と王を召還した未熟な魔法使いとの対決を見守っているのだ。
(……お、おれのせいなのか)
 惨状を目の当たりにしては、責任感がとぼしい綱吉だって果たすべき役割を自覚する。魔王をこの場から退かせなければ。
(なんでこんな大物がオレの召還に応じたんだ? ありえない。ピクシーの召還だって一度も成功してないのに)
 魔王は、顎を下げずに綱吉をじろじろと眺めた。
 眼球を冷徹に光らせて、ことさら丁寧に尋ねてくる。
「やめろと? 誰に……口をきいているのですか?」
 放たれる威圧感に膝が折れそうだ。胸焼けがまた蘇る。
(死にたくない――、け、ど)
 綱吉は、混乱しながらもローブの胸を引っ張った。下に手を入れる。薄着の腰には紐を巻きつけてあって、道具をいくつか隠し持っている。短剣を取りだした。
 柄を持つ手が恐怖に怯える。慎重に、白銀の刃を引き抜いた。綱吉の意図を悟って魔王が目を細めた。
「術者たる魔法使いが死ねば、強制的な退去が可能。そういうわけですか」
「……そうだ」
 刃を自分の首に向ける。
 綱吉の瞳の表面にゆらゆらと気弱な光が蠢く。
「召還の論理による強制送還――、だ! さ。さあ、今すぐ、自分で帰るかそれとも、オレみたいな弱っちいーのに強引に送り返されるっっ、恥ずかしい目がいいのかっ、どっちだ?!」
 魔王は無反応だ。綱吉は涙目で後退る。
「じ、自力で帰るよね? な? 帰りますよね?」
 く。魔王が非力を哀れむように喉を鳴らす。綱吉は、嘲りの吐息が聞こえると同時に、俊敏な風を胸元に感じた。
 オッドアイが間近にあった。抵抗の猶予もなく魔王が綱吉の首を握る。
「――選択肢はまだあるでしょう?」
「…………っっ!」
「魔法使いの自殺を阻止する」
「あぐ!」ずしゃあ! と、地べたに体が滑る。手からナイフが吹っ飛んだ。伏した綱吉のローブを踏んで、魔王が、右手を赤天に向ける。
「さらには石化の印を施す」
「エッ?! そ、そんなぁっ。やだぁ!」
 予想外の非道な宣告だ。
 綱吉が絶望で顔色を失った。魔王は愉悦を高めて声を濡らす。
「死ぬも生きるも叶わない! 石に成り果てる罰だ! 下等種族の分際で僕に交渉を持ちかけるなんざ、万死に――値するんですよ!」
「やっ……やめてえっ!」
 赤黒の光を宿した右手が綱吉の前髪を掴んだ。
 背中をのたうたせて懸命に抵抗を試みる。だが、意外な感触が鼻先を襲った。立ちあがらされてすぐだ。チュと鼻頭にキスを送られる。
「…………へっ?!」
 口がパクついた。
 魔王の長い爪先が――、
 いたぶるように唇の輪郭を撫でる。油断すると切り傷を作られそうだ。
 くす。
 鼻で笑う声がする。
「こうして、石みたいに硬くなるということは、不慣れなんですね? 初めてなのか?」
 魔王が、両手で綱吉の側頭部を掴み直した。
 ちゅ。今度はしっかりと唇同士を重ね合わせる。
 あたりが、シンとしている。
 時間が止まったよう思えた。唇を重ね終えて、魔王が綱吉にだけ聞こえるような微かな音色を奏でてみせる。
「――君、かわいいですよ」
 オッドアイが、瞬きで一瞬だけ隠れる。
「窮地に発揮できる自己犠牲の精神――。弱いくせに立ちはだかるその勇気。そういうの、嫌いにはなりきれません」
 震える綱吉の両脚を一瞥して、からかうように微笑する。
「気に入りました。ご褒美です」
 ちゅ。綱吉はまたもや口付けを許す。
 蒼白になって、意識を遠のかせている綱吉には抵抗のしようがない。魔王は無遠慮に綱吉の容貌を眺める。
「……単なる運命の気まぐれではなさそうだ。君は、この僕を召還できる資質をある面に備えているみたいですね」
 一人、納得した顔で、綱吉の顎をくすぐる。最後にもう一度キスをしてから、魔王はマントを翻した。
 取り残された綱吉は、その場に膝を折る。唖然としてしまって何も言えない。
「さよなら」
「……えっ?! ぶ、ブラッドブラック・ア、ぐ。っ!」
 黒き蛇王の放つプレッシャーが一秒で限界まで圧をあげた。キャアア! 魔に対する耐性が低い何人かが悲鳴をあげて倒れた。
 魔王の姿は、掻き消えた。
 ――魔王の連れてきた蛇のイスは、教師が総出で追い回して捕縛に成功したが(三日を費やした)(雲雀恭弥のトンファーがトドメを下したとの噂だ)、学校の真上にできた暗雲は、消滅に一週間ほど時間がかかったので、結局、並盛魔法学校は休校を余儀なくされたという……。幸いにも死者はでなかった。

『すごかったな、黒き蛇王とのキス事件!』
『おい、沢田。ここ見ろよ。悪魔のキスは性的対象として認めた証だって。感想は?!』
『悪魔のあそこは角のデカさに比例するそうだぞ? ツナ、どーすんだよ。蛇王のは先生達の腕よりも太そうじゃんか』
『魔王サマの唇はやわらかかった? ツナくん』
(う、うう〜〜〜〜ん)
 寮生からかけられた言葉の数々が脳内をぐるぐるしている。
 現在の綱吉には、眠りの時間だけが唯一の安息となる筈だが――、あれから八日が経った今でも、ひどくうなされていた。
(違う。違うってば。ファーストキスでもないってば。あ、アグエとのなんて、カウントしなくてもいいだろ。悲惨すぎるだろオレが)
 四人部屋で、一番左端のベッドを使っているが、青い顔で、布団を手の爪先が白くなるほど握りしめている。
「う、ううう」
 もぞ、と、パジャマ代わりのランニングシャツに触れるものがあった。シャツをめくると無遠慮に肌を探りはじめる。
「…………んッ」
 鼻にかかった固い呻き声が漏れる。
 冷たい体温が背中に貼りついている。それに、手のひらだ。胸あたり、特に心臓あたりを気に入って、何度も往復してくる。へそのあたりも、肉をほぐすようにまさぐられて小さく喉が鳴る。
 未知の心地よさを運ぶ手つきだった。
 綱吉はパチリと瞼を持ちあげる。朝日を感じる。まだ早朝だ。青い光だ。そして、やはり、ごそごそと全身を撫でてくる指先が……。
(ゆび?)
 左側の耳たぶを甘く噛まれる。綱吉は、両目を飛びでるほどに丸くする。
 ビク! として、全身を反り返らせてしまったせいで、相手に目覚めを悟られた。起きました? とか、爽やかな尋声に恐怖が倍率で加速する。
「なっ、あ、なあっ?!」
 背後だ。ブルーブラックの頭髪とオッドアイの男の子がいた。肌に吸着した黒衣の姿で、ベッドの半分を堂々と占領する。
「おはようございます、綱吉」
 飛び起きて、綱吉は窓辺に貼りついた。言葉が震えた。
「な――っ、んでっ、黒き蛇王?!」
「六道骸です。骸と喚びなさい」
「なっ。そ、その姿は」
 以前より幼い印象が少し強い。少年はクスクスと笑った。
「君の年頃に合わせてみようかと思いましてね。綱吉。抱き心地は申し分なかったですよ。加算、五点あげましょう」
「は、はあっ?! 何言ってんだ」
「魔界で少し隠居の準備をしてきました」
「はぁい?!」
「ちょうどね、后を捜している途中なんです。先の邂逅の前に、僕は、どんな種族のものでもいいから――」
 話の途中だが、綱吉はサッと顔面を青くした。
「――最良の相性を持つ相手と会わせろと、願掛けの悪法を使ったんですよ。君は僕を召還したつもりかもしれませんが、実際は、『君も』僕に召還されたというわけだ」
 にっこりと、出会ったときよりかはプレッシャーを抑えめにした笑顔を見せてくる。綱吉の頭の中を、ぐわんぐわんと、同じ単語が渦を巻いて巡る。
(き、后――? な、んてことを言ってんだ?)
 夢の中のがまだマシだと思える。頭痛がする。現実のがよほど悪夢だ。
 黒き蛇王こと六道骸はペラペラと自分のプランを喋る。
「しかし、好みの真ん中にいるとはいえ、君は人間です。僕の人間嫌いは魔界では有名なんですよ? しばらく観察させていただきますから。一年は必要として――、」
 言葉を句切り、蛇王は誘うように自らの胸を指で圧す。三日月を寝かせた淫靡な笑みを浮かべた。
「査定の結果、我が后に相応しいと判断できたなら、僕と結婚しましょう」
「こ……、怖いこと、言ってる!」
 かろうじて、気絶しそうなほどに衝撃を受けつつも、綱吉がツッコミする。
 ようやく他の生徒らが起床した。黒き蛇王の強烈なビジュアルはまだ全員の心にトラウマとして鮮明に残っているらしい。
「ギャ?! で、でたぁああああ!!」
「ツナが黒き蛇王をベッドに連れ込んでるぅううう!!」
「ち、違うーっ!」
 涙ながらに訴えるも、生徒達は部屋を飛びだした。
「よろしくお願いしますよ、僕の后候補」
「ひ、ひぃいいいっ。そ、その単語やめてえっ」
 ぞわぞわっときて自分の肩を抱く綱吉である。
 少年魔王はニコニコしていた。
「たっぷり可愛がってあげますよ? 日々、気を引き締めて査定に挑んで欲しいものですね」
「お、男! 男だぞオレは!」
「気になるなら女性に改造してあげましょうか?」
「いぎゃぁああああ?! すんません男で! 男でいたいです!」
 窓枠にかじりつき、懇願する。咄嗟に、脳裏には雲雀恭弥の教えが浮かんだ――
『不運もひとつの特出した才能である』!
 もはやコレしかないと思った。綱吉は震える声で気勢を張った。
「お、おれはっ!」
 反抗的な態度を咎めるわけでもなく、骸は観察の眼差しを注ぐ。
「ぜっっったい、落第しますから!!」
「何をえばってるのか知りませんけど……。だから?」
 黒き少年蛇王は余裕に目を丸くする。ヤケになって拳をにぎり、綱吉は身を切るような叫び声をあげた。
「だ、ダメツナの名にかけて落第してやるーっ!」
 あっけらかんと笑い飛ばされた。
「名誉ですよ? 蛇王の后なんて!」
「人類の敵ですよそれは?!」
 窓硝子の外には、慌てて校舎の方に逃げていくパジャマ姿の集団があった。同じ寮に住む学生達である。

 と、こうした事情は、学校につく頃には全校中に知れ渡っていた。
 雲雀教師は顔をあわせるなり言う。
「がんばって。綱吉、魔力的には大きく成長すると思うよ。魔王と一緒にいるとフェロモン吸収できるだろうし」
「ふぉ、フォローというか絶望ですヒバリ先生!」
 雲雀教師は興味深げに綱吉の後ろを眺めていた。少年魔王は、校内といえども、我が者顔で綱吉の後ろをついてくるのだ。
「……あの言葉はリボーンのものだし、魔界との冷戦を解除する星の運命持ちだって言って僕に君の教育を任せたワケだけど。こーいうことなのかな?」
「……え? 何か言いましたか、ヒバリ先生?」
 ぼそりと、早口で何事かを呟いた恭弥だが、綱吉が尋ねるとそっけなく首をふった。
「授業には遅刻しないように」
 そう告げると、教職員室に帰って行く。
 と、いうわけで、綱吉の人生をかけたテストが(強制的に)開始されたワケだが、
「にしても、落第しようと頑張る綱吉をみてるだけでゾクゾクしますよ。もういっそ満点合格でいいんですけど――」
「い、ち、ね、ん! 一年って言っただろ?! 落第の機会を奪わないでくださいぃい!」
 とか、涙ながらに骸に土下座している綱吉が学内で見かけられるようになったとか。そうなるまでに僅か二ヶ月だったとか。
 綱吉と蛇王による数々の伝説の幕開けでもあった。

 



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