恭弥と綱吉の誕生日

 

 声を聞いたわけでも姿を見たわけでもなかったが、綱吉は窓辺をふり返った。
 そこから――甘いというか、苦いというか、ちょっと違った空気の匂いを感じたからだ。しかしいつも通りの自分の部屋があるだけ。
「ヒバリ……さん?」
 綱吉は、戸惑いながらも名前を呼んだ。
 なんとなく確信を持てた。
「ヒバリさん。きてますよね。きてくれてるんですよね?」
 長袖で水色のパジャマはまだ冬用のものだ。五月の気候では夜になるとちょうどいい。
 カララと音をさせて窓から顔をだして、やはり誰もいないのをキョロキョロと見回して、少し考えてから、
「……よっ、と……」
 窓の木枠に手をかけて、綱吉は、右足をおろせるに足る屋根のひさしに算定をつける。
 雲雀恭弥は、よく、ここを駆けあがってくるから自分の体重くらいなら平気だろうが――。
 それでも、屋根を昇るというのは、綱吉にはいくらか非日常なものだ。
「…………。ふう」
 ハダシの両足をおろして、だが、窓枠から手を離せずに困ったときだった。
「手、貸そうか?」
 上の方から声がした。
 彼は屋根の頂上に腰掛けて、自分の膝に肘を乗せて頬杖をついて、沢田綱吉の悪戦苦闘ぶりをジッとして見つめている。
 薄雲ににじんだ月を背負っていて、神秘的な美しさがある佇まいだった。
 いつもの黒い学ランで、袖には風紀委員の腕章。
 ただ黒髪は風でふぶいていて少し違った印象があった。いちいち、月明かりを反射していて、銀色になったところがキレイだった。
 綱吉は、思わず、ぼうとしてしまって、しばらくは単に恭弥を見上げた。
「…………ハイ」
 やっと、声が出る。
 軽くうなずいて恭弥が立った。
「はい。すべらないでよ。面倒だから」
「ハイ」
 差しだされた手を握る。
 それだけのことに、綱吉は妙に頬を熱くさせてしまって苦笑を浮かべた。
「もうすぐ十二時過ぎちゃうんですけど」
「知ってるよ」
 屋根のてっぺんまで連れてきてもらって、綱吉は、恭弥と並んで腰掛ける。
 綱吉の家の近くには高いビルなんて建っていないから、屋根に昇れば、近辺の家々のほとんどを見下ろせる。胸がどきどきとしてくるのを感じながらも、綱吉は、少し遠慮しながら問いかけた。
「どうして、日中に会ってくれなかったんですか? オレ、もう、今日はヒバリさんに会えないのかなって……」
「…………」
 恭弥は明後日を見つめて、風に吹かれている。
 風の進行方向に顔を向けているその横顔がまた格好良く思えて綱吉は目をしばたかせる。
 拒否されているのか、単に話を聞いてくれているだけなのか。
 判別は、綱吉にはつけられない。
 沈黙が続いたあとで、やはり遠慮しながらも綱吉が質問を重ねた。
「あの……。どうしてきてくれたんですか?」
「…………」
 少しだけ、俯いたが、だが恭弥はまだ風が進んでくる方角を眺めている。
 その黒い瞳がゆっくりと瞬きしているのを見つめて、綱吉は、喉をつまらせた声ではあっても言いたいことを言った。
(いいや。コレが言えれば、それで!)
「ヒバリさん。たんじょうび――」
「言わなくていいよ」
 ヒタリとして相手の動きを止める響き。
 綱吉は息を止めて彼がふり向いてくるのを見守った。
 黒い瞳が、月明かりを吸収していたのか少し銀色を宿している。遅れて、彼の瞳が潤んでいるのだと理由に気付く。
 無造作に転がすような声で恭弥が言う。
「――まだ、ね。まだ十一時三十七分だよ。最後に言って。今日の最後に」
「どうしてですか?」
「言いたくない」
 にべもなく、そう言われたが、綱吉はむしろ安堵した。
 それどころか、嬉しくなる。
「……あと二十分くらい、どうするんですか?」
「考えてない。どうしたいの? 綱吉は」
「そばにいていいですか」
「うん。構わないよ」
 頬杖をついて、黒目で屋根を見下ろして恭弥が小さく息を吸う。
 こまやかな呼吸。
 それを感じられる喜びと、許しを得られた嬉しさで綱吉が笑うと恭弥がすばやく呟いた。赤ん坊から受け取った、と。
「あ、やっぱりリボーンとは会ってたんですね。あは、正解だ」
 恭弥が、普段はどこにいるのか綱吉は未だによくわかっていなかった。
 応接室にいって、そこに居なければ、その日はもう絶望的――、それがいつものこと。だからリボーンに渡しておいたのだ。
 綱吉に笑われたのは恭弥には少し切ないことらしかった。
 横目で眺めてくると、ため息のように、呻き声をもらす。
「君さ、バカだろ」
「けっこう、頭使ったと思うんですけど……。その件に関しては」
「いいやバカだね。僕はそういうの気に入らないよ」
「……開けました?」
「うん。開けた。赤ん坊が同情してくれたよ。何? これは。僕にどうしろっていいたいの、綱吉は」
 制服の胸ポケットから恭弥が取りだしたのは小さいメモ帳だ。
 言うべきか、言わざるべきか、時間があるなら小一時間は悩んでおきたかったが、綱吉はダメもとで言ってみる。
「おかしの方は?」
「食べたよ」
「リボーンとふたりでですか」
「うん。おいしかった。ちょうど、お昼時だったからね。ああいうクッキーは好きだよ」
「……そうですか、よかった」
 浅く、唇を両端にむけて伸ばす顔を、恭弥が不審そうに眺める。
「こっちの、このメモは何」
「…………。行き先くらい……、伝言いただいちゃダメですか?」
「…………」
 恭弥が目を丸くする。
 と、思いだしたようで、腕時計をまくって時刻を確認した。
「僕がこんな時間にこうして逢いにくるのなんて君ぐらいなんだけど。綱吉だって、僕ぐらいだろ? それじゃダメなの」
「ダメじゃないですけど」
「ならこのメモ帳は何さ。おかげで交換日記でもするつもりかって散々に言われた」
「す、すみません」
「うん。それで、仕方ないから、そのつもりだって返しておいた」
 何気なく言われたが、綱吉はまったく予想外だったのでギョッとした。
 もうある種の諦めが芽生えていた。恭弥の奔放ぶりは、彼自身にも自制がつけがたいものであって誰かが何かいって矯正されうるものではない。その諦めを見透かしているのか、風紀委員の少年はエモノを見る目つきで綱吉を見返している。
「……居場所を教える程度でよかったの?」
「で、でも、それ、めちゃくちゃ小さいですよ。日記にするなんて」
 嬉しかったが、つい、否定する言葉が口をつく。驚きが大きいせいだ。
「いいよ。書くことあんまりないから。天気と食べたものくらい? それじゃダメなのかな」
「あっ。ぜ、ぜんぜんダメじゃないです!」
 力んでいる綱吉が面白かったのか、恭弥は目元を和らげて綱吉にメモ帳を差しだした。
「そう。よかった。はい、じゃあ綱吉の番ね」
「……もう書いたんですか?」
「うん」
 震えてしまいそうになりながら、綱吉はメモ帳の表紙をめくった。
「……『天気は雨。夜には晴れそうだ。ケーキを食べた……。イチゴを最後に。最後は好きなものでしめたくなるよね。』……」
 読み上げてみて、なんじゃそら……、とか、本当に天気と食べ物なんだ……、とか、思ったが、しばらく経ってみて、初見の感動が引いてくると綱吉はハッとした。
 ちょうど、恭弥は、時計を確認してうなずいている。
「うん。五十八分。綱吉、」
 屋根の勾配の頂点に、恭弥が左手をつける。上体だけを綱吉に向ける。
「ごほうび、くれる?」
 両の手で握ったメモ帳をふるわせながらも、綱吉は忍び笑いのような笑顔でうなずいた。掠れた声で告げる。
「はい。好きな、だけ、ヒバリさん」
「ん。ありがと。もう言っていいよ。綱吉」
「誕生日おめでとうございます」
「うん」
 触れ合わせるようなキスの果てに、舌を絡め合わせて、しばし至福のときに溺れた。

 部屋に戻るべく、くだりの屋根を慎重におりる――、綱吉の片手を恭弥が掴んでいる。恭弥が、綱吉の足元を眺めていた。
「すべるよ。そこ」
「は、はいっ」
 部屋に戻っても、恭弥はすぐには去ろうとしなかった。
 綱吉は、窓枠に手をついて、窓辺に座りこむ。
 世間話でもはじめそうに見えたからそうしたのだが、本当にそうだった。恭弥は窓の外に座りこんで近辺の店のみかじめ代がどうとか言っている。
「……にしても、リボーンのやつ、都合よくいませんね」
 ふと思って、綱吉が言う。
「あぁ。そりゃあそうだよ」
 恭弥は楽しそうにニコリとした。どこか誇らしげで、今日一番の、嬉しそうな笑顔だった。恭弥の黒い瞳と黒い髪は、まだ月光の名残を帯びている。
「僕が交渉したんだから。気をきかせて夜は綱吉の部屋から出て行けって」
 

 

おわり







09.05.06


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