施錠

 

「綱吉。これ、あげる」
 そう言って彼が渡したものは南京錠だ。
 サイズは切りそろえたツメの長さと同じくらい。
 とても小さい。とても軽い。渡されて、薄茶の髪の毛の少年は両目でまたたきをした。不思議そうに、彼を見つめる。
「答えを待っているよ」
 にこり。目だけが、笑う。
 黒髪黒目、豹のように鋭い目尻。
 けもののような彼は静かに告げる。肉食の動物がツメを研ぐような動きで、自らの犬歯を人差し指で引っ掻いた。
 キ。犬歯とツメが擦れあう音、それがなぜか聞こえた気がして少年は二度目のまたたきをした。怯えたように、彼を見つめる。
「わかるよね。君なら。僕のこと、憧れてるんだろう?」
 ツメがぬらりと光る。
 外灯に照らされた故の光だ。
 月の明かりとは違う、濁りかけた白っぽい光り。それが、彼の頭上でブブブブと羽音じみた音色をたてながら点滅している。
 ぬらり、ツメがまた光る。少年は何かを言いかけるように下唇を食む。
 だが、結局、何も言わずに俯いた。
「……期限は」
「あした」
「わかりました」
「綱吉。ね。君は誰のものかな」
 少年のひとみ。それは、つまり沢田綱吉の瞳で、そこには強い混迷が浮かび上がった。推し測るように、必死に彼を凝視しながら綱吉は言葉を選ぶ。
 震えた声、自信のないか細い声、闇夜に呑まれるような声、
「オレは、オレのものです」
「そうだね。わすれないでね」
「わかりました」
 綱吉は目をそらす。
 そして彼の、雲雀恭弥の透かしみるような視線に耐え切れず足元に眼差しを落とす。少年が自分の靴先を見たところで、雲雀はつぶやいた。
「僕は誰のもの?」
「…………恭弥さんのもの」
 雲雀恭弥は歩み寄る。
 綱吉の真前で足を止めると、ゆっくりと腕を振り上げた。ぱちん。柔らかい音が鳴る。綱吉の頬に振り下ろした平手を、雲雀は薄笑いと共に見下ろした。
「綱吉のものだよ。ボスだろ?」
 綱吉は黙り込む。頬を打たれても、靴先に目線を落としていた。
 雲雀の指が頬に軽くツメをたてる。
 そして、それを最後にして言葉もなく踵を返した。ようやく綱吉は顔をあげる。夜の町、まっすぐ伸びた路面の上から彼の背中が遠のいていく。
「見送りありがとうございま……っ、さっ……。さよォならあ!」
 喉がつまって、音色が濁音に近くなった。
 雲雀は足を止めなかった。が、肩越しに振り向いて頷いてみせた。綱吉は息を止める。彼が見えなくなるまで。
 一人取り残されて、ようやく呼吸を戻す。
 はぁはぁとしていた。少年は手のひらの中に落とされた鍵を見る。鍵。ギュウ、拳を握るとツメが肌に刺さった。力の入れすぎだったが、それにも気付けないほどに綱吉は狼狽していた。
「…………」
 亡霊のような顔をして、少年は帰路についた。
 翌朝。沢田綱吉は学校に行った。
 昼休みを迎えた。放課後を迎えた。時間はまばたきの間に過ぎるかのように早く感じられて、綱吉はうろたえながら応接室の前に立つに至る。
 オレンジ色の光が、廊下を中途半端に照らしだす。
 綱吉は、夕日の明かりを踏みしめながら立ち尽くしていた。
 扉の内側から聞こえていた物音は、ずいぶん前から聞こえなくなっている。彼も、少年の来訪がわかっていたからだ。
 勘の良い彼のことだと、綱吉も予想がついている。
 しかし、扉を開けられない。
 鍵を右の拳のなかに隠していた。
 痺れを切らしたのは彼の方で、やがて、扉が内側から押された。開いた隙間から腕が延びる。ツメが夕日に当たって赤く光る。
 綱吉が気が付くと、扉を背にして向かい合わせになって立っていた。
 雲雀恭弥の瞳は黒い。
 黒目の中に仄かな渦をつくって、雲雀が頷いた。
「悲しいんだね。怖いんだろ」
「…………オレは」
「言わなくていいよ。もう少しなんだ。言葉にするのって好きじゃない。僕は、それあんまり上手くないから。……やらせないでよ。綱吉。もう少しなんだ」
 カリリ。雲雀が自らのツメで犬歯を引っ掻く。
 綱吉は、怯えるように眉根を寄せる。
 そうして右腕を背中に隠す。雲雀は笑う。そうして、呆気なく少年の右腕を引っ張り出した。
 気軽な動作で、あらぬ方向へと捻り上げる。
 薄く悲鳴を漏らして綱吉は指を開かせた。鍵がころりとして転がり落ちる。もう少しで落ちる、そのときに雲雀が手を離す。綱吉はそれが自らの命であるかのように鍵に飛びついた。受け止めたときには両膝をカーペットにつけていた。
「綱吉」
「オレはわからないです。言わないと。もう少しなら、なおさら。恭弥さん、オレは恭弥さんのままでいて欲しいんだ!」
「わかってる」
「あなたに憧れてるんです」
「わかってる」
「オレのせいで」
 少年は不自然に言葉を区切る。
 深いシワを眉間に作ったまま、顔をあげた。
「おかしくなって欲しくない。オレのせいで!」
 雲雀は小さく頷いた。
「わかってる」
 両手を広げる。
 しゃがみ込んだ綱吉には、神か悪魔か、人でない何かが羽根を伸ばしたように見えた。綱吉の瞳に畏怖が灯る。
「さあ。僕に鍵をかけて」
 綱吉が唇を噛む。
 雲雀は、今度は浅く頷いた。
「変わらずにいられるように。僕が僕のままでいられるように」
 綱吉の呼吸が荒くなる。苦渋に満ちた両目が手のひらの鍵を射る。雲雀は自らの袖を捲り上げた。
 鉄でできたチェーンがあった。無造作に手首をぐるりと一蹴している。雲雀はもう片手でチェーンの一部を摘む。そっと、自らも片膝をついて綱吉と視線を合わせた。
「…………」
 摘んで差し出されたもの。
 小さな金のわっか。金色の金具だ。
 終いには涙まで滲み出した瞳で、綱吉は恐る恐ると彼を見上げた。彼は、薄い微笑みを口元に浮かべていた。また、頷く。綱吉は摘みだす指先、そのツメをじっと見る。
 荒れた肌と、鈍く光るツメ。
 透明なその色の向こうにピンク色の肉が見える。
 ――この手を握り返す。
 ――ただ、それだけで許されるのなら、どれだけ楽だろう。
 震える指先で鍵をつまんだ。
 綱吉は、ぼうっとした瞳でその鍵を見つめた。
 小さい。小さい。これほど小さいもので、どこまで繋げるというのだろう。少年の疑問は大したことではない。要するに、彼の問題だった。
「綱吉」
 だから、呼びかけられると従うしかない。
 沢田綱吉は、喉をしゃくらせると彼に施錠を終えた。
「…………」
 雲雀の顔から感情が消える。
 彼は、この世のものではないようなものを見る目で鍵を覗き込んだ。手首に巻きついたチェーンが、鍵に振り回されてカチャカチャと音をたてる。
 雲雀恭弥はトンファーを使う。
 利き手の手首に鍵をつければ、闘いのときには、いつでも見えるはずだろう。雲雀が信じるのは、つまり、そういうことだ。
 ありがとう。小さく呟くと、雲雀は立ち上がる。
「じゃあ、いってくるよ」
 クスリと笑んでみせる。綱吉は疲れ果てたようにグッタリと肩を落としていた。
 その肩を掴んで、突き倒すようにして扉の前からどける。綱吉は恨みがましげな目をして、引き止めたがっている目をして、雲雀を見上げる。
 雲雀は静かに見下ろし、漆黒の瞳を細めて見せた。
「でもね、君を守るためには僕が狂うくらいじゃないといけないと思うんだ」
 まじまじと、彼は右の手首を見つめる。
「……どうしてこんな細い鎖を選んだんだろうね、僕は」
「……恭弥さん!」
「うん。わかってるよ」
 イタリアはここより暖かいのかな?
 その疑問に綱吉は応えることができない。ボンゴレのボスといっても、イタリアに行ったことがない。彼のための基盤を作るため、誰かが先陣を切らないと……、血塗れた道を突き切ってでも、誰かが進まなければならなかった。
 小さな鍵を見つめながら、雲雀は首を傾げた。
 そうして、綱吉へと笑いかける。
「……これが、僕の命綱」
 ひらり。手のひらを躍らせると、雲雀は廊下へでた。扉が閉まると同時、
「じゃあね。綱吉」
 ――その声に不吉なものを覚えて綱吉も扉をでた。
 窓が開いているだけで、廊下に人影は無い。
 綱吉は小さく息を吸い込んだ。肺が呼吸を拒むかのように、重くて、痛いように感じる。無人の廊下に落とす、それにしては、情感のこもった苦しげな呻き声だった。
「いってらっしゃい。恭弥さん」

おわり

 

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