スナップ写真

 ほんの出来心で、ディーノは踵を返した。
 付き従っていた黒服の男はサングラスの下で怪訝な顔をする。
 金髪の青年は、照れたように頭を掻いた。それでいて、何も言うなと目で語っている。戻った先にいたのは、安っぽい蛍光灯の下でグラマラスな肢体を浮き上がらせる日本女性だった。
 あと五分も歩けばスラム街だ。ホテルが軒を連ねる界隈で、太腿を晒したミニスカートを履いた女性がやる商売など決まっている。その女性はディーノに驚いた顔をみせた。上等なスーツを着た美青年が歩み寄ってくるのだ。どう見ても堅気ではないが、彼女が、この商売に手をだしてから一度もお目にかかったことがない上客なのは確かである。女はすぐさま姿勢を伸ばし、ハイヒールの踵を鳴らした。
「ブアオナァセーラ!」
  手に持っていたチラシを示し、アパートを示す。
 強い訛りのあるイタリア語だ。青年が瞬きするだけなので、女性はじれったそうにチラシの一部分を指差した。一回いくら、と、そのものズバリを記述した部分である。
 何かを言おうとした部下を制止して、ディーノは首を振った。
「アー。ジャッポネーゼ? ジャパニーズ? ニホン語わかる?」
「ヵアオ! あっ、あたし」
 女は、口に何かを含むような格好でしばし黙りこんだ。
 忘れていた言葉を思い出そうとしているようにディーノの目に映る。
 黒髪と、黒い瞳と泣きボクロが印象に残る女性だ。その実は少女に等しい年齢なのかもしれないな、と、青年は頭の隅で考えた。女ははしゃいだ声をあげた。
「あたし、日本人だよ! お兄さん、日本人がいいの?」
「やっぱりそうか。なんかそれっぽいと思ったんだ」
「ヵアオ。お兄さん、ニホン語上手ね」
「え? そうか?」
 人好きのする笑顔を浮かべながら、懐に手を伸ばす。
 取り出したのは一枚のスナップ写真だった。即席カメラでとったような安価な代物である。
「試しに聞いてるんだぜ。こいつに似てるヤツっているか?」
「ん〜……。お兄さん、これ、オトコだよ」
「ああ。さすがに男はいねえか?」
「…………」
 物言いたげな上目遣いに、ディーノは苦笑を浮かべた。
「ま、別にいないならいいんだ」
「このひと、お兄さんが好きなひと?」
「どうだろうなァ。いっぺんヤリたいんだが、できない事情があるんだ」
「お兄さん、女の人よりどりみどりちがうの?」
「ハハハッ。違くねえよ! でも、そーいうもんじゃねえってこと、わかるだろ? そういう商売してるなら尚更さ」
 女は驚いた顔をする。
 この仕事を、その切り口で語る男を初めて目にした。
「ウチ、オトコは取り扱ってないよ……」
「そか。スマねえな、お嬢さんに変なこと聞いちまって」
 肘で小突かれた部下は、洗礼された動作で皮製の財布を取り出した。
 ギョッとしている内に紙幣を握らせる。最初に提示した一回分の、ゆうに二十倍はある額だった。
「不思議だな〜」
 ディーノはまじまじと女を覗き込んだ。
「ツナと同じ国の人間ってだけで、親切にしてやりたくなるぜ。お前さん、それで別の働き口でも見つけな」
 女は戸惑ったように紙幣と青年とを見比べる。
 青年は、部下に何事かを命令しながら引き返していく。慌てて声をはりあげた。
「オトコ専門のとこなら知ってるよ! 紹介しようか?」
「おお。鞭を使ってもいいか?」
「は?」
「そういう趣味なの」
 飄々とした笑い声をあげて、ディーノは後ろ手を揺らめかした。
 女は立ち尽くしたままその背を見送る。やがて、夜に溶け込む黒いスーツがリムジンに行き着くのを見て、深いため息をついた。スナップ写真の日本人が少し羨ましい気がする。恨めしい気もする。
 それはそうと、アパートに戻ったら金を取り上げられるだろう。予感は確信だ。
 このまま行方をくらまそう、と、決断には時間が掛からない。ハイヒールの甲高い鳴き声が闇夜に潜り込んでいった。蛍光灯の白々しい光の中には、もう誰も佇んではいなかった。

 

 

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「ブオナセーラ」で「こんばんは」…。かな。
挨拶の言葉らしいです。訛りっぽくしたいーと「ァ」をテキトウにまぜました。
「 ヵアオ!」は「あらま!」くらいのニュアンスで受け止めてほしいです。