闇の声



「君が一緒に死んでくれるなら」
 そう言って、暗闇から降りたった人影は見知った男性だった。苦々しさを噛み締めて彼の名を呼んだ。彼はこう言った。
「久しぶりに聞きました。その名前。今は、僕は、まったく違う名前を名乗っているんですよ」
「そうなのか」
 へらへらとして簡単に言ってくる。
「ええ。教えてあげませんけどね」
 厭な男だと思う。
 冷たい声で尋ねた。
「なにしに来たんだ?」
「君に与えられたものを返しにきました」
 上品に着こなしたスーツ。その胸のポケットから指輪を抜き取った。光沢のある特別金属でできた指輪には霧を流したような風景が刻印されている。彼は、軽く口づけてから、
「もう用済みですからね」
 こちらに投げて寄越した。
 ボンゴレ十代目は片手で受け止めた。手中に握りこむ。そのまま、一瞬だけ迷った。
 燃やしてしまおうか。この男の前で。
 醒めた躊躇いは凍りついたまま腹の底に落ちる。十代目は視線を下ろす。デスクには未処理の書類ばかりが散漫と広がって、ふっくらした山ができている。
 山の頂上に、指輪を置いた。
「……ボンゴレファミリーは利用価値がなかったか?」
「ええ。旨味が少なかったですよ」
「どの口が言うんだか」
「クフフフ。君こそ」
 青年がトロついた動きで目を細めた。
「僕にそんなことを聞くなんて、ともすれば、まるで残ってくださいと……」
「そうじゃないんだ」
 頭の右側を平手で抑えた。単に平凡な会話をしようと試みただけだ。
 比較的、平凡な会話を。
 恐ろしいので、視線は合わせられなかった。
 書斎室。彼と二人きり。
 脳裏に走る回想は、決して、楽しいものではない。彼はいつも傲慢だったし沢田綱吉という人間に対しては辛辣だった。他の人間にはまだ当たりもよかったし、温厚ですらあったが(十代目にも温厚で丁寧な態度を取った)、けれど、沢田綱吉に対しては冷酷極まりなかった。彼は、その理由を愛してるからだと語ったものだが、
「お前をクビにしたのには賛成。戻さないよ。ここで、今、オレを脅したんだとしても」
 腰まで伸ばした蒼黒の髪は六道骸の肢体に纏いつく。彼ほどの美貌の男が、どうして奇抜なスタイルを好むのか十代目には理解がし辛いことが多々あるが、こうしてデスクの卓上灯だけに支えられた世界で彼を見ると納得する部分ができる。纏わりつく髪の一束は蛇の胴に思えて、頭上を飾る逆立ちした髪の房がツノに思える。六道輪廻で得た能力を自慢とする彼にしたら、自らを鬼と見立てた儀式的な行為なのかもしれない。いいや、そうなんだとしても。十代目は己に聞かせる。
 この男はただの暴力的なパイナップル愛好家だ。
 愛情表現が狂ってることは知っているので、きっと、パイナップル好きが高じて髪型までマネしちゃった可愛そうな男なのだ。恥ずかしいから認めないだけに違いない。
 パイナップルだ。パイナップル。
 唇の中で繰り返しつつ十代目が目を瞑る。
 恐怖感に堪えかねてのことだった。
 無意識のことでもあったから、目を瞑った途端に、自分の本心を悟ってますます脳裏で混乱した。押しのけようとしても彼の力は強かった。
 適当に広げただけに見えても、綱吉の頭には書類が整理された状態で記憶してあった。いまや、六道骸が両膝でデスクに乗って全てをぶち撒けてくれた。両手首を捻られながらも十代目は必死になって胸中で呻き続けた。パイナップルだ。こんなパイナップル男が恐いわけない。だから恐くない。
「一緒に死にましょうよ! ねえ! いいですよ別に君が僕を捨ててもボンゴレから追放すると言っても好きにすればいい全ての決定権はボンゴレこそが握っているのですから! 好きにすればいいさ! 好きにしただろ?!」
 見開きのオッドアイが頭上で猛った光を放つ。
 楕円に縮んだ瞳孔も、歪に鉤なりに曲がった口角も全てが――おそろ――。そこまでの意識を強引に捻じ曲げる。こんな南国男に負けては駄目だ。
「サインは、した。お前も納得しただろ」
「しましたよ。ええ。しました。してませんよ。どう考えたら僕が諦めがついたと?! しましたけど、十代目には従ってやろうと思って随分長いこと色々な衝動を耐えてきましたけどだから?! 僕はやっぱり君を忘れられなかった……! ツナ。死にましょうよ。僕が一緒に死んであげますからずっと一緒にいられる世界に行きましょうよ」
 つんざくほどに甲高い叫び声。室内にむわりと満ちるのは濃厚な殺意だ。
「ツナ、君に与えられたものを返しに来たって最初に言ったでしょう」
 か細く喉を震わせて骸は言う。
「壊していいですか。壊し返していいですか。ツナ。壊してやる。死んでください。僕のために」
「…………」
 心臓が破裂しそうな悲鳴をあげている。胃液が逆流する感覚で、手足が縛られた。十代目は絶句して、蒼白な顔を六道骸に向ける。
 しばらく見ない内に、また一段と病んだものだ……。
 両腕の自由を奪われたまま、動けないでいるにも関わらず、骸は戸惑いを強く覚えるようだ。こうべを垂らして、ぶるぶると発作的に揺れながら十代目を上目で睨みつける。
 イスに座った体が汗で濡れる。まだ冷や汗が出る。
 十代目は深呼吸をしようとして失敗した。喉からヒュッと掠れた悲鳴だけが漏れる。骸が片方の眉根を動かした。憔悴しきった眼差しが顔面に伸びてくる。
 キスの手前で、彼はビクリと動かなくなる。
 怯えたように見えた。そうだ、と、十代目は自らを鼓舞した。
「し、ろよ。骸。前みたいにオレを愛してみろよ」
「…………。前みたいに?」
 オッドアイが困窮に竦み上がった。
「そうしたら、また――」
 また、君は僕を裏切るでしょう。確かに骸は震えていた。
「してみな、よ。しなよ。口の中が腫れるまで、とか、オレが意識失うまでとか、得意だろ」
「できません」
 首を振って、混乱したように両眼を白黒させる。骸は壁まで視線を投げて小さく呻く。
「壊死してしまえばいいんだ」
 この青年は最後の一線を越えているのだろうか、と、瞬間的に疑った。だが十代目は動揺を押し殺して固唾を飲んだ。恐くない。パイナップルなんだから。
「こんなに近くに居るのに、もう僕は君に触れるのが恐くて仕方ありませんよ……。君は……君だけは僕に優しくしつづけてくれるって信じてたのに……。勝手だとか、狂ってるだとか変態だとか頭の中で罵っていたとしても。ツナはそれでも僕を抱きしめ返してくれるって……ずっとそう思っていたのに。イヤなら、受け入れられないなら、最初からそうして欲しかった……」
「こ、わ――」
 くない。恐くない。
 十代目の頬に透明な光が垂れる。
「やめて! やめてよ!!」
 掠れた叫び声が書斎室に響いた。ともすると少年の声に聞こえる。他ならぬ十代目の声だった。
「ここに来るな! オレを綱吉に戻すなよ!」
「ツナ。僕はもう六道骸には戻れないんです……」
「お前は元から壊れてた! 付きまとうな!」
 駄々を捏ねる子どもと同じように背中を丸めて体を揺すった。両手首をデスクの上に引っぱられて、唐突に強く引かれたので目尻から落涙が散る。沢田綱吉は目を赤く腫らして骸を睨んだ。
「このパイナップル! 髪が伸びすぎなんだよ!」
「一緒に死にましょうよ。そうすれば僕はもう恐くない。君と一緒にいられるなら恐くないんです」
「オレはぁ……ッッ」
 ずっと恐かったんだよ!
 と、その一言が喉を通らない。確かにずっと恐かった。拒絶すれば六道骸は死ぬだろうと思えたからだ。十中八九。道連れにされるだろうとも思えたからだ。
「……ぱ、ぱいなっぷる……」
 全身を縮めて、顎から涙をこぼしつつも呻く。綱吉にとっては長らく愛用した魔法の言葉だ。
 骸は意味がわからないとばかりに首を傾げる。さすがに彼も激情を吐露しつづけて限界に近いのかオッドアイが潤みを帯びていた。
「僕と……そろいの髪型にしたいんですか?」
「ぜ、ぜんぜん違う」
 力尽きそうなのをグッと堪えた。
「同情は、しない……。オレはボンゴレ十代目として生きるって決めたんだよ。お前は、だめだ。オレを十代目のイスから引き摺り下ろそうとするから」
「だって僕が大嫌いなのは沢田綱吉なんですよ」
 囁きは、口調こそ頼りないが、刺すほどの鋭さを併せ持つ。
「一緒に死にましょうよ。睡眠薬、持ってきました……。楽なのがいいならこれをあげますから。一緒に死にましょうよ!」
「うるさいっ。イヤだ!」
「じゃあ僕がこの手で殺してあげましょうか」
「イヤだ!!」
 渾身の力で、デスクのへりを持ってひっくり返した。書類どころか棚の中身までもが中空を舞ってカーペットの上に散らばる。
 後ろにたたらを踏んで、綱吉はぜえぜえと呼吸を整えた。
 骸は最初と同じに闇の向こうに混ざった。卓上灯が、ヴヴヴと断末魔じみた電振を残して、消えた。辺りは一面の黒で上塗りされた。
「…………」
 人の気配はあるが、どこにいるか、わからない。
 綱吉はこぶしを握った。
「骸。お前のことは嫌いじゃなかったよ。それは確かだったと思う……。でももうわかるだろ。オレ達、仲間としては一緒にいられない」
「君を殺したい」
「このまま、二度とオレの前に現れないなら、それでもいいと思ってた」
「僕は許さない。君に死んで欲しい。ねえ。ツナ」
 ああ、骸が笑っている。綱吉はなんとなく理解した。きっと悲しみを堪えて笑っている。
「世界で一番、大ッ嫌いですよ」
「…………」
 暗闇に目が馴れて、前方に佇む輪郭が透けた。
 それもいやだった。綱吉は目を閉じる。六道骸を手放した。追い出した。その決断に間違いはなかったと本気で思う。ボンゴレ十代目は。
 だからきっと、この思いは沢田綱吉の意思なんだろう。呻くと泣声に聞こえた。
「……死なないで、って、言えるようになったら、またオレのとこに来てもいいよ。骸」
 カーペットを踏みしめる微細な音を聞きつけた。右手に人の熱が触れる。手渡されたのは、小さなメモ書きだった。少なくとも睡眠薬ではない。
 静寂の中ですら聞き取り難いほどの声量だった。
「キスしていいですか」
 綱吉が目を開けても、闇が渦巻いているだけの世界しか見えなかった。
 闇雲に手を伸ばした。
 こちらから触れたのを了承と取って、闇が、震えながら額に口付けした。
 しばらくして、風が吹き込んだ。彼が窓を開けた。
 黒い塊が窓枠に片脚を乗せつつ、つぶやいた。
「君は、僕が殺します……」
 煽られてカーテンが動いた。大分重いから、少しの風ではビクともしないのだが、それがハタハタとして左右に揺れる。カーテンの隙間から差し込んだ月光が、ぐちゃぐちゃに荒れた室内を照らした。
 一人、取り残されてから、綱吉は手の中を見た。
 アメリカの番地が書いてあった。小さく人名が追記してある。この頃、抗争中の外国人だ。この住所がアメリカンギャングをまとめる男の自宅らしい。

 

 

 

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